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ヤコブ書1-4章:主は純潔と貞節を喜ばれる〔質問を尋ねる②〕

前回の記事では、ニーファイの弟ヤコブが当時のニーファイ人の男性たちに向けて彼らの伴侶への誠実さと献身に欠ける行いを責め、道徳的な清さを保つこと、純潔や貞節の尊さを教えていることから発展していった学びを紹介しました。前回の記事を読んでいない人はこちらからどうぞ。

ヤコブ書を読んでみると、ヤコブはかなり率直に純潔や貞節という繊細なテーマについて教えていると感じました。それほど当時のニーファイ人の状況と、特に男性の不道徳が家族に与えている影響は看破できない状態だったとも言えるかもしれませんが、一方で自分の生きる現代を振り返ってみると、これはわたしたちにとってもヤコブと同じように率直に語り合うべきテーマなのではないかと思えてきます。

わたしの周りにはクリスチャンの家庭で育ったいわゆる2世、3世のクリスチャンが多くいますが、彼らの話を聞いていると、決して少なくないクリスチャンの家庭で「性」というテーマについて神聖に扱われているというよりはタブー視されてしまっていて、性に関する疑問や質問を家庭の中であまりオープンに話し合えなかったということがあると感じます。そのため多くのケースで、疑問や質問の答え、性に関する価値観があやふやなまま世の中で教えられていたり目にしたり耳にしたりする事がらの影響を大きく受けることになったという人たちを見て来ました。

しかし、前回の記事でも紹介したようにこのテーマはわたしたちの人生の幸福や喜びに非常に深く結びついているものであるため、特に親子の会話の中でもっと適切に語られるべきものだと思えます。

家庭の中でこの神聖で大切な真理をどのように子供たちに教えていけば良いのか、子供たちの成長と発達に応じてどのようにクリスチャンの価値観としての道徳観を実際の生活に当てはめて語り合っていけば良いのかは、親としてとても大切な問いだと感じています。そこで、前回紹介した学びのプロセスの中で浮かんできた質問は次のようなものでした。


  • 子供に性について、いつから、どのように教えていけば良いのだろう?

  • わたし自身のこれまでの親としての実践はどうだっただろう?もっと今から改善できることは何だろう?


これらの質問のように、聖文学習では単に教義の定義を明らかにしたり、文字や理論として覚えることからさらに一歩進んで、実生活でどのように応用し実践するか、学んだ教えに沿って生きるということが具体的に自分の生活においてはどのようなことなのか、ということを考えるように促されることがあります。

「個人の改心を深める」という聖文研究の目標を考えても、むしろそうでなくてはなりません。イエス様の福音が頭の中で考える理想論や宙をフワフワと漂う空想のようであってはいけません。イエス様の福音は、実際に人を救う力をそなえていて、行動と心と生活に変化をもたらすものなはずです。

聖文学習において、

  1. イエス・キリストの福音の教義や原則に焦点を当てて学び

  2. 個人の生活でどのように応用し、教義や原則に一致して実践するか導きを求める

というパターンはいつも心に留めておきたいものです。このパターンについて、ラッセル・M・ネルソン大管長は次のような具体例を挙げて教えてくださったことがありました。

ネルソン大管長は「安息日」についての教義を明瞭に教えられてから次のように続けました。

救い主はご自分のことを安息日の主と呼ばれました。安息日は主の日なのです。繰り返し、救い主は安息日を守るように、あるいは安息日を聖別するように求めて来られました。わたしたちはそうすることを聖約しているのです。

どのような方法で安息日を聖別するのでしょうか。わたしがまだ若かったとき、安息日に行うことと行ってはならないことについて他の人々がリストにしたものを学習しました。程なくして、安息日に対する自分の行いと態度が自分と点の御父の間のしるしであると聖典から学びました(出エジプト31:13参照)。そのことを理解すると、もう行うことや行わないことのリストは扶養でした。ある活動が安息日にふさわしいかどうか判断する必要がある場合、こう自問するだけでした。「自分は神にどんなしるしを差し出そうとしているだろうか」この質問は安息日についての選びを極めて明確にしました。

……安息日の行動が喜びと歓喜をもたらすということを、どのように確認できるでしょうか。教会に行くことと、聖餐を受けること、与えられた奉仕の召しを熱心に果たすことに加えて、他に何が安息日を喜びの日とする助けになるでしょうか。主に愛を示すために、皆さんはどのようなしるしを主に差し出しますか。

ラッセル・M・ネルソン「安息日は喜びの日」2015年4月総大会

子供たちに性について教える際にも、このパターンに沿って子供たちと一緒に学び話し合うのが良いかもしれません。福音の教義と原則を一緒に学び、一緒に考え、自分たちはどのようにそれを実践するかを話し合います。親だからという理由で強制力を働かせて子供に従わせる、ということはわたしも今でも陥ってしまいがちな失敗ですが、子供たちの持つ自分で選択する能力と力を信頼して、それをサポートし力づけるような方法で取り組みたいものです。

このようなことを考えながら、わたしは自分のこれまでの様々な経験を振り返って思い出していました。その多くは失敗なのですが、次も同じ失敗をしないようにどうすればよいか、聖文の中からヒントを探しました。今回の学習プロセスで思い起こし、反省し、改めて調べて学んだこと、今後の親としての決心を、いくつか例として紹介したいと思います。

反省①:思いがけず直面する

子供たちは成長の段階を経て、家庭という枠組みを超えてさらに広い社会の中でいろいろなことを経験していきます。そのような自然な成長と発達のプロセスの中で、子供たちが触れる情報、経験のすべてを親がコントロールすることはできない、というのは当然のことです。むしろ、そのようなプロセスを経て子供たちが自分で考え悩み選んでいく経験を通して、彼らの自立と成長と喜びは増し加えられていきます。(とは言え、親としてはあまり放任にならず、子供たちの社会や経験、興味や恐れに関心を持ち、それらを知ろうと努力すること、必要なときにサポートする準備ができていることはとても大切なことだと感じています)

そうすると、親として時々思いがけないタイミングで、子供が経験していることに直面することがあります。そして、それが親の価値観に反する望ましくないものであると、どのように反応すればよいか困ってしまうことがあります。
一般的には例えば、このようなことがあるかもしれません。(これらの例のいくつかは実際にわたしも経験したことがあります)

  • 子供が友達との会話やメディアからの情報で聞き覚えた性的なワードを意味も分からず口にする

  • 偶然、あるいは興味本位で、子供がポルノグラフィーに遭遇する

  • 子供が異性の体に意図的に触れる

  • どのように妊娠し出産するのか尋ねてくる

  • 学校の保健体育で、初経や精通、精子や卵子、体の仕組みや性について学ぶ

  • 学校で避妊について学ぶ

一般的には低年齢児にとってはまだ単純な好奇心や興味本位であることがほとんどですが、発達の段階で心や体に変化が生じる年齢になってくると、それはより直接的な興味や衝動が伴う経験になってきます。

このような経験に子供が直面するだろうことを予期していながら、思いがけないタイミングでそれが明らかになると親として動揺してしまい、適切に反応できないことがあります。わたし自身の反省として、特に若い親であったときにもっと違った対応を取っていればよかったと思う経験がいくつかあります。わたしの失敗のひとつは、「過剰に反応する」ことでした。それが「怒り」という感情を伴なって表現された場合は、わたしにとってはもっとも反省すべきものでした。

新しい経験に直面している子供にとって、しかもそれが性という大切なテーマに関連した経験であるならなおさら、子供たちが必要としているのはサポーターでありガイドとなってくれる人です。わたしは「子供のために」と言いながら実際には、子供たちが信頼できるサポーター、子供たちのガイドになるチャンスを自ら捨てていたのです。

親が子供の経験や選びに怒りや説教を向けるとすれば、その後、本当に助けや導きを必要としているときに、子供が親の所に来ることはもっとハードルの高いことになる可能性があります。親がそのように反応するときに、子供が打ち明けるよりもむしろ隠すことを選ぶように暗に促しているとさえいえるかもしれません。

この反省を今後の行動や選びの変化にできるよう、聖文の中に指針を見出したいと思いました。このような具体的な行動や選びを改善するためのヒントを聖文の中に見つけようとするときに、わたしはよく「模範」を探すようにします。

例えば、イエス様ご自身やイエス様に倣おうとしていた人たちは、自分と似たような場面に直面した際に、どのような行動を選んでいたのかを探すようにします。今回のそのように聖文を調べてみました。そうしたときに、イエス様のある女性に対する態度が思い起こされました。

すると、律法学者たちやパリサイ人たちが、姦淫をしているときにつかまえられた女を引っ張ってきて、中に立たせた上、イエスに言った。

「先生、この女は姦淫の場でつかまえられました。

モーセは律法の中で、こういう女を石で打ち殺せと命じましたが、あなたはどう思いますか」。

彼らがそういったのは、イエスをためして、訴える口実を得るためであった。

新約聖書ヨハネによる福音書8章3-6節

罪の現場を取り押さえられた女性がイエス様のもとに連れて来られて、イエス様がこの女性をどう扱うのか試された場面です。

しかし、イエスは身をかがめて、指で地面に何か書いておられました。

彼らが問い続けるので、イエスは身を起して彼らに言われた、「あなたがたの中で罪のないものが、まずこの女に石を投げつけるがよい」。

そしてまた身をかがめて、地面にものを書きつづけられた。

これを聞くと、彼らは年寄りから初めて、ひとりびとり出て行き、ついに、イエスだけになり、女は中にいたまま残された。

そこでイエスは身を起して女に言われた、「女よ、みんなはどこにいるか。あなたを罰する者はなかったか。

女は言った、「主よ、だれもございません」。イエスは言われた、「わたしもあなたを罰しない。お帰りなさい。今後はもう罪を犯さないように」。

新約聖書ヨハネによる福音書8章6-11節

イエス様は言い逃れのできない状況で連れて来られた明らかに間違いを犯した女性にも、不純な目的でイエス様を試そうとした人々に対しても、終始冷静で声を大きくすることも、しかりつけたり説教したりするような様子も一切ありませんでした。

人々の前に連れ出されて罪悪感や不安、恐れ、恥ずかしさを感じていたであろう女性に対しては、人々のいる前で対応されることなく、やっと1対1で話せる状況になってから、彼女に向かって言葉をかけられました。その言葉は決して辛辣なものではなく、穏やかで的確なものでした。

女性に対しても、責め立てた人々に対しても、彼ら自身が深く内省できるように促す言葉を投げかけられました。

わたし自身の立場をあてはめてみるなら、子供の言動に「過剰な反応」を示したわたしは女性をイエス様の前に引き出した人々のようなものでした。そのような反応をすることで、子供たちは内省、反省、自分の価値を感じる、勇気を得る代わりに、この女性のように恐れや恥ずかしさ、不安、反発を感じていたことでしょう。

むしろイエス様の言葉の通り、わたし自身も過去に失敗した経験があり、誘惑や葛藤に直面したことがある者なはずです。子供たちと同じ道を歩んできた経験があるからこそ、石を投げつける代わりに、もっと共感し支援的な態度で対応することができるはずです。個人的な1対1の場で「よく来てくれたね。よく話してくれたね。お父さんも同じように感じた経験(興味を持ったり、強い衝動を感じたり、隠れたいと思ったり、葛藤したりしたこと)があるよ。それは特別なことではないよ。お父さんもそのような経験に直面して、どのようにその経験に対処したか教えることができるよ。一緒に学んで、一緒に話し合おう」という姿勢を持ちたいと感じました。

反省②:気まずい話題ではなく親子関係において開かれた話題

わたしの子供時代も、自分の子供に対しても「性」に関する話題はどこか気まずい話題だったと思います。しかし、自分たちが信じ、そう生きたいと願っている人生の最も大切な側面のひとつであること、その価値観が世の中の流れとは大きく隔たりがあり、その傾向がますます進んでいくだろうことを考えるなら、この話題が家庭の中でもっとオープンに話し合える環境であるかはとても大切な要素です。子供たちはその成長段階で間違いなくこの大切なトピックに直面します。しかも、世の中がこのトピックについて暗に、あるいは直接的に教える場面はますます低年齢化していることは明らかです。

親としてうやむやにしていれば、子供たちは何となく正しく学んでくれるものと淡い期待をすることはできません。親が教え相談相手にならないなら、他の誰かがそうなるでしょう。そして、その存在はわたしたちと同じ価値観をもって子供たちに教えてくれるわけではありません。

自分自身の若い親としての反省のひとつは、このトピックを気まずい話題のままにしてきたことでした。

子供が興味や関心を強く持つようになる前から、親子がオープンに話し合える関係性があるかは一つの鍵であると感じています。「性」について基本的な価値観を教えるのに最も適しているのは、子供たちがまだ幼い間です。「思春期」になってから始めるのではなく、子供の発達に合わせて、親子の会話の中で自然と教えることができれば素晴らしいと思います。

しかし、「オープンに話し合う」とはなんでもかんでも誰とでも赤裸々に語る、ということではありません。「性」というものは福音の価値観において「結婚した夫婦」という関係性に限定される神聖で個人的な事柄です。ですから、決して軽々しく扱うものでもありません。わたしの個人的な感覚としては、子供が「お父さんやお母さんになら、質問しても良い。お父さんやお母さんなら、きっと教えてくれる、助けてくれる」という感覚を持ってくれていることが大切だと思っています。

このような親子の関係性は、「性」というトピックを含め、日常の家族や親子の何気ない会話によって築かれていくものだと思います。過去の自分を反省し、今後さらに改善していくための指針となる模範をやはり探してみたいと思います。

モルモン書の中には、様々な親子の関係性が垣間見えるような記録が含まれています。それらを調べていた時に、この度特に心に留まったのはヤコブと息子の関係性でした。

さて見よ、わたしエノスは、父が正しい人であったことを知っている。父はわたしを父の言葉で、また主の薫陶と訓戒によって教えてくれたからである。……

見よ、わたしは森で獣を狩ろうとして出かけた。かつてわたしは、父が永遠の命と聖徒たちの喜びについて語るのを度々聞いていたのだが、その父の言葉が、その時になってわたしの心に深く染み込んできた。

モルモン書エノス書1章1-3節

今回の個人的な学びの中で注目したのは次の2つの点です。ヤコブは…

  1. ヤコブ自身の言葉と主の言葉で息子に語りかけていた。

  2. 家庭の中でも他の人々との会話でも、前向きな態度で語っていた。

つまり、父ヤコブと息子エノスの「直接的なコミュニケーション」と息子エノスが父ヤコブが他の場面での他の人ととっていたコミュニケーションを「度々」聞いていた「間接コミュニケーション」のどちらともが、エノスが問題や葛藤、質問や疑問に直面したときにどこに答えを求めようとしたかの選びに最も重要な影響を与えた、ということです。

わたしは子供たちと個人的にどのような会話を持っているだろう?わたしは妻としている会話、他の人としている会話を子供たちが聞いているという意識を持っているだろうか?それらの直接的・間接的なコミュニケーションは、いざ子供たちが葛藤や質問に直面したときに父親であるわたしのもとに行くために一歩踏み出す勇気を与えるものだろうか?

さて、わたしの以下の質問をガイドにした学び、反省はまだまだ続きます。


  • 子供に性について、いつから、どのように教えていけば良いのだろう?

  • わたし自身のこれまでの親としての実践はどうだっただろう?もっと今から改善できることは何だろう?


しかし、今日の記事はここまでです。次回の記事では、わたしが子供に教えるべき最も大切なことに心を向けるように導かれたプロセスを紹介します。そしてそれは、純潔と貞節について教えと勧告に続いてヤコブが教えようとしたことでもありました。

学びと内省がイエス様の福音の教義と原則に方向づけられたものになるために、この記事があなたに役立つものであるように祈っています。

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