北畠顕家
最近、北畠顕家について調べている。
そもそも私は伊達政宗が好きなわけだが、政宗のご先祖様
を調べてると…伊達家のルーツは、現在の栃木県と茨城
県にまたがる地域を領有していた中村氏だという説が有力
らしい。
その中村氏から政宗に至る家系図の途中に伊達行朝なる
人物がいて、2度も西国に行軍した人物らしいと。しかも
そのうち1度目の行軍は、かの豊臣秀吉による中国大返し
より速くて長い驚異的な行軍だったとのこと。その行軍を
指揮していたのが北畠顕家。
北畠顕家の超ざっくり略歴。南北朝時代、南朝方の
後醍醐天皇の配下として陸奥国に派遣される。北朝方の
足利尊氏を1度は破るも、2度目の戦いで敗死。21歳と
いう若さだった。この略歴だけでも、いくつか
「なんで?」とツッコミたくなる箇所があるのだが、
そのツッコミどころについて調べていくうちに、さらに
「なんで?」が増えていき、結局「北畠顕家ってスゲー
ヤツだったんだなー」と思うようになった。
伊達行朝は北畠顕家の2度の行軍に従う。北畠顕家敗死の
際、一緒に敗死してしまった武将もあったが、行朝は
奥州まで逃げ帰る。行朝の子孫は南朝から北朝に転身し、
版図を現在の福島県北部から山形県南部に広げ、米沢城を
本拠地とし、いよいよ政宗の時代に至る。