千田の犬の "たった3本しかない歯" について
うちの犬には歯が3本しかない。奥歯が左右に1本と2本。
はじめて飼った犬なのでこれがあたり前だと思っていたが、どうやらそうではないらしい。たまに犬凸*でよその犬を見ると驚くことがある。とうもろこしみたいにみっしりと生え揃っている歯の迫力に怯える。
以前も書いたがこの犬は保護犬だった。「繁殖引退犬」とも表現できる過去を持つ。あまりいい育ちではない。AKIRAとかX-MENとかストレンジャーシングスとかに出てくる実験工場を思い浮かべてほしい。そういうところに居たと思ってもらえれば結構だ。ちょっと演出が過剰気味だが、イメージなんてものは鮮烈なくらいが丁度いい。
道具——あるいは消耗品——として扱われた本犬は、残念ながらさして愛玩されることはなかったようだ。少なくとも口腔環境までケアされることはなかったらしい。
結果として小さな口の中には3本の奥歯しか残っていない。
「三本の矢を束ねれば、お前らマジでチョベリグ」——というのはかの戦国武将・毛利元就の言葉だが、犬の口中で3本が協力することはない。左右上下に別たれてしまっているので、同時に駆使できる本数ですら最大2本にまで限定される。
そんな貧弱な歯科装備をもろともせず、彼は旺盛に餌に喰らいつく。牛丼のどんぶりの上で絶命するジジイのネットミームみたいに皿底に顔面が吸い込まれていく。
こいつはルパンなのかと疑いたくなるほどの早食い野郎なのだが、もしかするとそれは歯が無いことが原因なのかもしれない。その貪欲なベージュ色の後頭部を見るたびに僕は不思議に思う。さすがに不便ではないのだろうか。3本て。
細かいことをすべて保留してよいなら、歯数を一桁台にまで追い込まれていた犬コロが、体重を気にしなければいけないほど食うに困らぬ怠惰な生活をしていることを喜ばしく思う。
犬の歯磨きについて
せめて残った歯を綺麗に保って健康寿命を延ばしたいという人間のエゴのもと、毎夜歯磨きを実施する。
手順はこうだ。
1) 背後から犬の頭蓋を鷲掴み、自由を奪ってから 指に巻きつけた"歯磨きシート" を口の中に捩じ込む。奥歯を軽く拭き、食べかすのたまりやすい部分を入念に掃除する。
2) 犬は「ぐー」とくぐもった声で不服を訴えるが、人間はそれを意に介さない。歯磨きシートの汚れた部分を内側に織り込み、新しい面で歯磨きを再開。同じような動きで口内の汚れを取り除く。犬は「ぐー」とくぐもった声で再度不服を訴えるが、やはり人間はこの声に屈しない。
3) 概ねの歯磨きを終えて犬をリリース。よっぽど嬉しいらしく「うっひょいうっひょい」という調子で踊っている。汚れたシートをゴミ箱に捨て、そのついでに台所を少し片付ける。新しい麦茶をつくるためにケトルでお湯を沸かそうか——というところで、犬は二足歩行になって僕のふくらはぎを引っ掻く。
3-2) 「あーはいはい、ちょっと待ってな」と軽く謝罪しながら冷蔵庫に向かう。犬は背後や足元をはしゃぎながら付いてくる。自分の影が踊っているようだ。このように文字で書くと幾分楽しそうだが、正直ありえないくらい邪魔である。
4) 冷蔵庫に手をかけ、ドアポケットから小瓶を取り出す。フロアは最高潮の盛り上がりに達する。小瓶の音を聞きつけて、犬が犬なりのブレイクダンスをしている。小瓶から現れるのは、ポリゴンで作った京都タワーみたいな白くて硬い物体。歯磨きシートを我慢したあとは、歯磨きガムをやるお約束なのだ。
5) 歯磨きガムの所要時間は、お互いのコンディションにもよるが5分から10分を要する。なるべく長く噛ませたい人間と、なるべく早く食べたい犬畜生との真剣勝負である。犬は3本しかない歯で器用にガムを噛む。「へし, へし」という息が漏れるのが聞こえる。犬は歯磨きガムの虜であり、したがって歯磨きガムは魔法の犬寄せ棒だ。棒を左右に振って犬を操縦したり、耳元まで犬を近寄らせて「へし, へし」の吐息をゼロ距離で聴いたりすることができる。
歯磨きガムの中にもいくつかの工程やコツがあるのだが本稿では割愛。とにかく我が家ではシートとガムの二段構えで入念に残り少ない歯をケアしている。なお、人間の歯はそれほど綺麗ではない。僕の元にも圧倒的な上位存在が現れて愛玩を絶やさず飼育してくれることを望む。
ある日、歯磨きシートを手に取ると珍しく律儀に犬が寄ってきた。捕まえる手間が省けて助かると誉めながら犬を撫でると、奴は歯磨きシートをぺろっと舐め、おいしい味だけ盗んで走って逃げていった。やっぱりルパンなのかもしれない。
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