【気づき】Vol.0805(2010年10月10日発行のブログより)
岡野俊⼀郎さん。
僕は巨⼤な下駄箱を本棚として使っている。
その下駄箱本棚から、
ちょいとはみ出していた分厚いハードカバーの本が1冊あった。
抜き取って手にしてみると、今からちょうど8年前に購入した、
300ページの教育論の本だった。
改めて感銘を受けた言葉がある。
「サッカーは、いちいち監督から指示が出て動くのではない。
それぞれの局⾯で、すべて自分で判断する。
⼀瞬の判断を実践するために技術を学び、体力をつける。
それが魅力」
赤ペンでグリグリ何度も線が引かれていて、裏まで滲んでいた。
老舗の和菓⼦屋さんの跡取りとなるはずだった、
⽇本サッカー協会の最高顧問である岡野俊⼀郎さんの言葉だ。
岡野さんは最初の職業選択で、
お団子ではなくてサッカーボールを選んだ。
岡野さんは、
当時の名門・都立小石川高校を卒業して東京大学理科Ⅱ類に入学。
⽂学部心理学科を卒業している。
今でいうなら、
麻布高校や東京学芸⼤附属高校から東大に入学・卒業するイメージだ。
本来なら理学部か農学部か薬学部に進学するところを、
⼈間の研究を選んだということだ。
勉強だけの⼈間はたくさんいた。
スポーツだけの⼈間も掃いて捨てるほどいた。
でも、勉強もスポーツも成果を挙げた人間はほとんどいない。
名門校で文武両道といっても、実際には勉強で実績を残している人間と、
スポーツで実績を残している人間はまったく別だったりする。
学校の経営上のプロパガンダとしてはいいのかもしれないが、
実態としてはインチキである。
僕はパワーリフティングという競技のトレーニングに、
学生時代打ち込んでいた。
本気で優勝を狙っていたから、
全日本ボディビル大会で優勝を果たしたコーチに、
直接個別指導を受けていた。
学生の間からも、
「コーゾーさん」
と愛称で呼ばれるほど慕われていた伊藤倖三コーチだった。
パワーリフティングに限らず、
ラグビー、野球、サッカー、アメフト、バレー・・・
といったありとあらゆるトップアスリートの指導をされていた。
お金儲けにはあまり向いていなかったが、
コーチとしての実力は超⼀流だった。
いつもトレーニングは、たったの30分で終了した。
もちろん、その30分の密度は果てしなく濃いものだった。
終了後2時間以上は雑談だった。
雑談といっても、天気の話やエッチな話ではない。
心理学や哲学の極めて真面目な専⾨的な話である。
コーゾーさんは、宮沢賢治が大好きだった。
コーゾーさんとの会話で、
『春と修羅』の
「わたくしといふ現象は 仮定された有機交流電燈の ひとつの⻘い照明」
という⼀節や、
『銀河鉄道の夜』の
「ぼくは誰かの幸せのためなら、
ぼくの身体なんか百ぺん焼いたってかまわない」
という⼀節をいつの間にか記憶してしまったくらいだ。
コーゾーさんも僕も本の虫だという点で共通していた。
コーゾーさんはハンサムでいつも目がキラキラ輝いていた。
延々と雑談を続けて、
うっかり1日ジムで過ごしてしまったこともあるくらいだ。
かわいがってもらった。
そんな中で、
生涯忘れることのない言葉のプレゼントをいただいた。
「体育大学の選⼿じゃなくて、お前が勝たなくては意味がないんだ」
このひと言を聴いただけで、
僕は4年間仙台で学生生活を送った価値があった、
といっても過言ではない。
大学3年生の夏、僕はオーバートレーニングのために、
⼼臓肥大で2週間検査入院をした。
足の付け根から、心臓カテーテルも突っ込まれた。
大学病院の担当医師に言われた。
「寿命を縮めたくないのなら、やめておきなさい」
僕は質問した。
「何年縮まるのですか?」
医師は言った。
「最悪、30歳まで」
「そうですか」
僕は明るく即答した。
翌日から僕は水を得た魚のように、
以前よりもハードトレーニングに励んだ。
縄⽂時代の平均寿命は30歳だったと知っていたから、
当時の僕は、30歳以降の人生はおまけだというのが持論だった。
だから僕は今おまけの人生で好きなことだけをやっている。
コーゾーさんは、勉学には非常に厳しい人だった。
勉強不足の人を露骨に軽蔑した。
保険会社に就職が決まったことを最初に伝えたのも、コーゾーさんだった。
「そうか、立派だ。本当によかった」
すごく喜んでくれた。
なぜだか、目が少し寂しそうだった。
「もう、バーベルは握るな」
と言っているかのような目をしていた。
知性がある人間がスポーツをやらなければ、スポーツに失礼なんだね。
岡野俊⼀郎さんの文章を読みながら、
コーゾーさんと交わした会話の数々がフラッシュバックした。
スポーツこそ、学問である。
追伸.
で、肝心の結果はどうだったんだって?
惨敗でしたよ。
ドラマや小説のヒーローのようにはいかないですね(笑)
富士山と北岳では雲泥の差である、
という話を僕が頻繁にするのは、何を隠そう、
僕がいつも北岳かそれ未満だったからです。
僕の人生は、いつも北岳でした。
だから、これからの人生で富士山を獲得するんです。
...千田琢哉(2010年10月10日発行の次代創造館ブログより)
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