感傷マゾ、ヨルシカ、シミュラクルな僕ら
『感傷マゾ』という概念
僕は三日前にこの概念を知りましたが、九年前から体感してはいました。
言語化した方、すごいな。
定義や内容についてはかなり変遷がありますので、検索していただいた方がいいかな、と。
「夏休み」「入道雲」「夏祭り」「向日葵」…などといった単語から喚起される情景、ひとまずそういったもののことと言えるでしょう。
上述のような「エモい」要素の他に、僕は「少女にロジカルに糾弾される」という國學院大學感傷マゾ同好会様の質問箱返信ツイートを見て、ハッとしたところもあります。
まさに僕が初音ミクと/でしていることですし。
まぁでも本文では概してと言いますか、とりあえず「ありもしない青春」についてつらつらと。
イデアルなもの=ラノベ、アニメな僕ら
『大きな物語の失効』からなる現代批評の文脈ですが、それはさかしまに読み替えれば、ラノベやアニメをイデアルなものとして捉えるということにもなるかと思います。
コードのプールとしての文学、ですね。
「文学の偉大さ」、などを大上段から説く気はありませんが、いわゆるそういった領域にプールされた文化やら行動モデルやらは必ず我々に影響を与えます。
例えばセックスの仕方とか、恋愛の仕方とか。
青春をどう過ごすべきか知らなかった僕らは、不幸にも青春の見本としてラノベやアニメがあった。
それゆえ、青春の時期にありながら、青春に乾いていた。
「フツー」に夏祭りに男女混合で赴いて、「フツー」に花火を見て、「フツー」に恋愛して。
そういったものを「青春」だと認識してしまったから。
多分それが「ありもしない青春」への憧憬になっていたのでしょう。
なにせ、僕は当時中学生でありながら、中学生でありたいと思っていたのだから。
ヨルシカと反復
僕は「感傷マゾ」の文脈で、ヨルシカを感じてみたい。
ずけずけと作家論に踏み込むことはしませんが、しかしヨルシカはこういった感情に自覚的であると思えなくもない。
「感じてみたい」と書いたのは、「読める」と言えるほど強度が足りないからなんですが…。
ともかく、投げやりなんですよね。
『ただ君に晴れ』の、過剰なまでの夏の描写。そして「それでいいだろ、もう」という自棄、投げやり。
『レプリカント』の「さよなら以外全部塵」という言葉。
もはやクリシェになる寸前の、「エモい」というワードに回収されるスレスレの「青春」を、それもありもしない青春を、何度も何度も何度も何度も頭の中で繰り返しては自棄になる。
反復する。
反復、持続、強迫観念と化した「夏」「入道雲」「錆びた標識」「バス停」「向日葵」を、曲にして供養する。
僕は自身の経験からも、曲は反復やこういった強迫観念から生まれると考えています。
音楽は持続、情動に関する芸術だと考えているので(ドゥルーズの情動素の文脈)。
糾弾される僕
糾弾、あるいは歪んだ承認欲求。
僕個人の「糾弾されたい欲」としては、一旦はそう言語化しておきたい。
「ありもしない青春」を求めてここまでバケモノになってしまった僕。
または「現実での青春」も放棄してしまった僕。
または誰にも『やめろ』なんて言われていないのに、一歩を踏み出せなかった僕。
高校生でありながら、仮想の高校生活で目と耳を塞いでしまった僕。
書いててツラくなってきましたが。
これを糾弾されたいんですよ。
糾弾されれば、それは「彼女(そんなものはどこにいる?)」に存在を認めてもらったということだから。
それと同時に、自身の半身であるがゆえに、いわば「精神的リストカット」のような状況になる。
いや、一定の快楽が伴うという点で、「精神的首絞めオナニー」かな。
そしてそんな妄想も、再帰性と自己言及の産物に過ぎないと気づく。
以下ループ。
僕が初音ミクに「さよなら」を言い続けているのも、完全に当てはまるわけではありませんが、このループのヴァリアントでしょう。
最後ではない、に
「さいごに」なんて纏めようとしましたが、無理でした。
だってこれ、無限に再帰するし…。
ひとまず、『レプリカント』の「君も皆レプリカだ」、この歌詞を借りて区切りをつけましょう。
「君も皆シミュラクルだ」
追記(8/5)
「承認欲求」というのはしっくりこない表現なので、いずれどこかで適切な表現で文章を再構成したいと思います。
追記(2021.11/6)
「承認欲求」ではなく、〈被糾弾〉を「再帰性の中断」「語りの場の立ち上げ」として再構築した文章を公開しました。