「大怪獣のあとしまつ」を忘れたい を読んで思ったこと。
映画公開から2年近く経過してもなお話題に上り、新規視聴者が増えているのは、実は凄いことなんじゃないかと思う。そして映画公開時とほぼ似たような感想が流れてくるのも興味深い。
今回、ディケイ堂さんの感想を読んでみて、何が伝わらなかったのかを、改めて考えてみた。
映画に対する感想は人それぞれだし、同様の感想を持たれた方が多数いるのも事実。
元記事を批判するつもりはありませんので、その点はご理解ください。
現実と地続きを感じない世界観
そもそも「怪獣が存在する世界」自体が現実と地続きじゃないし、もし「怪獣が存在する世界」なら、怪獣が現れた時点では「自衛隊」が対抗していても、歯が立たないとなると、それに対抗する「国防軍」や「特務隊」といった組織が創設されてもおかしくないと思う。
ちなみに「特務隊」は、それ以前のテロ事件に対抗すべく秘密裏に創設され、怪獣出現によりその存在が明るみに出たという設定が、劇中で明らかにされている。
直後に差し込まれたデウス・エクス・マキナの文字
この文字がどこからきたものか、劇中では説明が無いが、おそらく首相が電話で報告を受けたものと思われる。
ラストでアラタが変身する際の呪文として「デウス・エクス・マキナ」と発声していることから、冒頭で怪獣を倒すために変身した時の呪文を聞いた者が、首相に報告したのではないだろうか?
そう考えると、「デウス・エクス・マキナ」というのは、仮面ライダーが変身するときに「変身」と唱えるのと同様、ただの変身呪文にすぎない気がする。
そしてその本来の意味を知っているオタクに、これは「デウス・エクス・マキナ」で終わる物語だとミスリードさせる効果も狙っていると思う。
一貫して政治家達がクソなんだけど、風刺の仕方が下品
災害時に政治家は何をすべきか?
国民を安心させ、元の生活を取り戻すことだと思う。そのためには、当然財源も必要になる。
政府は、まず「安全宣言」を出し、怪獣の死体を廃棄するのではなく保存し、観光資源にしてインバウンド収入による復興財源の確保を目指した。
確かに怪獣が死んだことによる安堵感で気が緩んでいるようにも見えるが、発言内容は理路整然としてるし、やるべきことは迅速に決定し、行動している。
国防大臣の下ネタ(といっても単語だけ)や意味不明のギャグ(周囲も引いてる)が印象的なので、政府全体が無能なイメージを受けるが、彼も裏で特務隊から指揮権を奪う実力の持ち主。
「見た目で判断すると本質を見誤る」というのが、この映画で伝えたかったことかもしれない。
確かに下品な表現は多く、それが映画全体の印象になって酷評されたのは事実。
では敢えてそのような表現を使って監督が観客に伝えたかったものは何だろうか?
「三木聡作品では人が死なない」という話を聞いたことがある。いや大怪獣のあとしまつでも、怪獣との戦闘で多数の死者が出たはずだが、直接的な表現は無い。
「希望」に刺さった環境大臣も、一歩間違えば首の骨を折って死にかねないところを、下半身丸出しの下ネタで(不謹慎な)笑いにすり変えている。
全身キノコのYouTuberも、冷静に考えれば命の危険を伴う深刻な事態であり、グロテスクな姿を見た観客がトラウマになりかねないところを、●に観客の視線を誘導することで、下品でくだらない笑いにすり替えている。
やはりここでも、「見た目で判断すると本質を見誤る」ということを伝えたかったのではないか?
メイン主人公らしいアラタ隊員も、(中略)無能感が鼻について素直に応援する気持ちがわいてこない
彼には怪獣の死体を処理せず放置してしまった負い目があり、同時にその正体を隠さなければならない理由があった。もしその正体が明るみになれば、元婚約者ユキノとの復縁は不可能になり、シン・ウルトラマン同様政府から追われる立場になる。
だから人間の姿のまま、任務を遂行しようとするのは当然だと思う。
指揮を任されたくせに現場にやたら出て行くし
指揮を任されたとはいえ彼は一度失踪して戻ったばかりの下っ端なので、部下はほとんどいない。(スナイパーの椚くらいか?)
なので結局自分が出ていかざるを得ないのだと思う。
彼が実際に指揮をしたのは、ダム爆破作戦だけ。
「希望」を海に流すことで消臭し、周囲の海水を薬液に入れ替えることで「ホルマリン漬け標本」にする案。(決して「海洋投棄」ではないことに注意。)
ところが雨音に設計変更前の図面を掴まされたことにより、爆薬の量が足りず失敗。
アラタを責任者に任命したのも雨音なので、雨音は最初からアラタの正体を暴き、失脚させ、妻ユキノの元から追放することを狙っていたものと思われる。
現場と指揮所の思惑や思想がズレたまま進み
アラタは最初から一貫して政府の意向に沿って、死体の保存(そのための第一歩としての無臭化・無害化)を目指してきた。
ズレていたのは雨音だけ。
ブルースの用意していたミサイルランチャーを使い、アラタが無事無臭化に成功したにもかかわらず、雨音はアラタにミサイルを浴びせ続ける。
もはや雨音にとっては、怪獣の死体なんかどうでも良かった。
結果、雨音の思惑通り、アラタは正体を晒すことになる。
最後は主人公がウルトラ系巨人に変身してメデタシメデタシ。
それまでの経緯を把握できていれば、決して「メデタシメデタシ」でないことは明らかなはずなのだが、多くの観客はそのようにミスリードされてしまった。
彼が変身したのは、雨音に対して負けを認めたということ。
そして、死体の「あとしまつ」を断念し、「廃棄」を決意したということ。
その結果、人類は「希望」(という名のお宝)を失い、「あと死待つ」というオチ。
「ウルトラマン(に見える存在)は、無条件に人類の味方で、人類の期待に応えてくれる存在」という大前提を、見事にぶち壊してくれた、画期的な作品だと思う。
まぁ、一般の人には、受け入れがたいでしょうね。(笑)
最後にそれをやるなら、今までの行動は何だったのかがさっぱり分からない。
その通りだと思う。政府が最初から「保存と収益化」などというできもしない「絵に描いた餅」をあきらめて、「廃棄」を決めていれば、ここまで苦労することはなかったと思うし、アラタの手を煩わせる必要もなかったと思う。
でも、それじゃ映画にならない。(;^_^A
そうすれば、ひっそりとそういう邦画があったねと、ただそれだけで終わったのだ。
その意味では、多くの人にその名を知らしめたという点で、このプロモーションは大成功だったのかもしれない。
映画制作者が最も恐れるのは、何の反応もなく忘れ去られること。
たとえ観客の心に怒りしか残らなかったとしても、心が大きく震えたという意味では「感動」の一形態。
今後、似たジャンルの映画が公開されるたびに思い出され、話題に上るとしたら、監督冥利に尽きるのではないかとさえ思う。