九月劇場 演劇ぽい面白さ
有料なのですが、190円なのでぜひ読んでみていただきたいコラム。映画とコントを比較して「カット割り」がある面白さについて書かれています。
映画と漫画は、この「カット割り」「コマ割り」で場面や日時の変化、空想・回想を表現するのですが、舞台はカット割り・コマ割りがない(暗転があるのですが、暗転の多用はぶつ切りになるのでカット割り・コマ割り程使用できない)。
という点の処理の仕方が九月さんのコントの「演劇ぽさ」であるのではないのかと。舞台の性質をうまく使っているというか。
時間を変える「穴の旅人」
こちらの「穴の旅人」、コントは8分なのですがコントの中ではとても時間が経っています。
4分過ぎに旅に出た主人公が一度舞台袖にはけてから、再び登場するところです。ここが映画だったら「カット割り」でいける場面なのですが、袖に隠れることでカット割りの代わりになっています。
場所を変える「舞姫の間」
ただ、「袖に隠れる」というのも暗転と同じく多用すると途切れてしまうのでここぞの場面でしか使えないのですが、そこでこちらのコント
「舞姫の間」ではぐるぐる回っています(50秒)。この狭い舞台をぐるぐる回ると、「舞姫の間」にたどり着くわけなんですがこの場面を見ているときに私の脳内では
こんな廊下かなとか想像が広がるわけです。(ちなみにこちらの写真は青森県八戸市の元遊郭だった建物を旅館にした「新むつ旅館」)
「ぐるぐる回る」というのもおまじないチックで(変身する時とか回りますしね)、これから起きるであろう展開に期待が膨らみそしてその後の展開で「なんだそりゃ」と笑えるのです。
ありえない場所に変える「罪とクレープ」(ネタバレあり)
同じく場所が変わっているのがこちら「罪とクレープ」
こちらは最後「クレープの中」に場所がかわってしまっていて、これが例えば絵や映像だと非常に難しいなと。正確に言うと映像にしちゃうと「面白くない」ですね。どうやっても非常に陳腐になっちゃうと思うのです。そして、小道具や装置・照明を使って表してもおそらく陳腐になってしまう。これは体一つでコントをしている九月さんならではのテクニックというか、面白さですね。
この「クレープの中にいる」で「あ、それクレープにまかれるパントマイムなんだ」「ていうかクレープの中ってなんなの?」「おいおいクレープ大きいだろ」「どんなイメージで見ればいいんだ」という色々なツッコミが無限に沸いてきて「いや、意味わかんないwww」となるのですね。私は。
因みに、私の脳内では薄暗い青っぽいイメージになっています。他の皆さんはどんなイメージになっているのでしょうか、クレープの中。興味深いです。いや、なんだよ、クレープの中って。
「家庭教師」
以上、色々と九月コントの「演劇ぽさ」について書いてきましたが、最後はこちら。「家庭教師」。
・ピン芸人である(相手役はいなくてもいるはず)
・コントである(笑えるオチがあるはず)
という前提を生かしたコントで、これらがあることでよりぞくっとしてしまうコント。このオチは小説でも漫画でも映画でもできるんですが、カット割りの加減が難しいと思います。具体的には、伏線になる程度の不自然さとオチに行きつくまで観客の興味を持たせなければいけない(結末を予想する楽しさを維持しなければいけない)という点が必要になってくるのです。
それが上記の前提があるために、
・そもそもピンなので人がいないのは不自然じゃない
・最後笑いがくるはず
と勝手に観客が思い込んで見てしまうので、オチでスコーンと落とされる。
これ「目の前にいた人が消えた」のか「そもそも見えていない人に話しかけていた」のか、どちらの見方もできておもしろいですね。映像だとこの辺りで伏線張ったり(周囲の人が訝しげにしている様子、又は周りの人も消えて驚く)するのですが、ピンであることで観客の自由度も高い。
シンプルなんですが絶妙だなと。
まとめ
というわけで、以上九月コントの「演劇らしさ」について私が思う事を書いたのですが少し気づいたことが。
「舞台上で時間が大幅に経過する」「場所が大幅に変わる」というのが、九月コントが「演劇ぽい」と言われる要因なのかもしれません。思い出してみれば、あまりこのような展開のコントって見かけないかもです(お笑い詳しくないけど)。ピンだとモノローグタイプが多いのかな。って気がします。
コントとしてその発想やセリフが面白いだけではなく、「時間も場所も自由に行き来できる」という舞台ならではの面白さも堪能できる事が九月コントの魅力でもあるのではないのでしょうか。
来年またなにかやれたらいいな