孤独の疾走 - ウォン・カーウァイ4K復刻リバイバル
WKW 4K復刻リバイバル上映@シネマート新宿
20230211 恋する惑星(1994香港)
20230218 天使の涙(1995香港)
ウォン・カーウァイ(WKW)。1990年代、20代前半であった若輩の私に「欲望の翼」で映画の価値観を変えてくれた作家である。確か淀川長治氏を講師に招いて都内で催された映画サークルの鑑賞会でこの作品の名が上がり、それに惹かれて当時の勤務先に近い横浜の映画館まで観に行った記憶がある。そこで垣間見た世界は、ストーリーを語ることなどそっちのけで、幻惑的な映像美とそれに生き物のように寄り添って強烈な印象を残す音楽だった。恐らく1992年の日本公開時の話である。
その後の1995年日本公開の「恋する惑星」でのポップな感覚に熱狂し、今は亡き新宿二丁目の名店「クロノス」で並み居る芸術好きを前にWKW作品の新しさ・素晴らしさをまくし立てたものだ。マスターの黒野氏が「恋する惑星、ウチのお客さんにも評判だよ」と言ってくれたのは、口の立つ若造であった私への配慮だったのか。若き日の懐かしくも恥入る思い出である。
その後の1996年日本公開の「天使の涙」は当時の私には理解できなかった。金城武とM.リーがオートバイで爆走する終幕の映像と音楽だけが印象に残った。そして1997年日本公開の「ブエノスアイレス」はかなりの話題作であったにも関わらず鑑賞を避けた。「恋する惑星」での熱中から醒まされたくなかったのだろうか。
ともかく「欲望の翼」と「恋する惑星」は若き日の私の映画体験の里程標となった。バブル経済崩壊の只中の崩壊の予感に満ちつつも、未だ輝きを謳歌していた東京そして新宿二丁目。そして香港は英国からの返還の熱狂の只中にあった。それらの時代の熱狂感と不安感が交錯する90年代の記憶の中で、WKWは我が青春の日々のイコンとして未だに輝き続けている。
そのWKWが戻ってきた。ほぼ30年ぶりの再会に不安が無かったと言えば嘘になる。幾多の芸術作品の鑑賞歴を重ねた50代の私の目に、かつて感激した作品たちは単なる商業作品にしか映らないのではないか。あるいはかつての若き日の感激が色褪せぬまま蘇るのか。不安と期待を抱いてシネマート新宿に足を運んだ。
不安は杞憂に過ぎなかった。若き日の私が熱狂した鮮烈な映像と音楽の感覚美は全く古びていないが、WKWはそれだけの映画作家ではなかった。30年ぶりの再会でようやく彼の作品の真価を理解したことで、30年前の私自身の実像を垣間見ることになった。
これは若者の映画である。身を刺すような孤独のなか、他者との「つながり」を渇望し、それを求めてがむしゃらに疾走する若者たちを描いている。その疾走の欲求の根源にある「つながり」への渇望、その背後にはまぎれもなく冷たい孤独が存在するのだが、そのいずれも意識しないままひた走るのが若さなのだ。「恋する惑星」の金城武とF.ウォンは、まさにそういった若さを体現するキャラクターで、若き日の私が彼らに熱中したのも私自身の若さが成したものだったのだ。
そしてWKWは若さを無邪気に描く監督ではない。「恋する惑星」で白人男性との爛れた恋を捨てて再出発するB.リンは、まさに若さゆえの疾走の果ての孤独を抱えながら夜の街を彷徨う。無邪気な金城をサングラスで表情を隠したままあしらう彼女の無言の存在が、あまりも痛々しく他の登場人物と対比される。「天使の涙」ではさらに各人物像の孤独感が強調される。裏の世界で暗躍するL.ライとM.リーは互いを渇望しつつ触れ合うことは無い。前作のキャラクターを引き継いでいる金城武は、心の支柱である父を喪ってから、前作ではキュートに感じられたキッチュなキャラクターがむしろ痛々しくなる。痛みを抱えつつ金城とリーが出会い、夜の都会を爆走する終幕は慰めなのだ。両作品のこういった「痛み」は若き日の私には理解できなかった。私自身、30年前は疾走する若者の一人だったのだから。「天使の涙」の終幕の慰めの切なさは、いまの私にして初めて心に響くものとなった。
求め合いつつ結ばれ得ぬ姿は、ITに侵食され尽くした21世紀の現代人の宿命であり、その姿を究極に追い込んだのが「ブエノスアイレス」なのだろう。遠く逃げ延びた異国で、寝食を共にし肉体を貪り合う日々を送り、やがて破局を迎えるゲイカップル。再出発するT.レオンと闇に沈んでいくL.チョンの容赦ない対比もさることながら、T.レオンの再出発をWKWの映像と音楽のマジックで彩っているところに彼の眼差しが垣間見える。3作品に共通して言えるのは走り続けることへの前向きな眼差しだ。未来に何が待ち受けるのか、それをわからずとも求め続け走り続けること。
私達にそれができるのだろうか。30年の歳月は人と社会と世界を残酷に変えてしまった。私は人生の峠を超え、日本社会は未曾有の停滞から脱せられず、香港は中国共産党の橋頭堡に変質してしまった。
それでも新たに生まれる若い世代は走り始め世界を動かすだろう。30年ぶりに再会したWKWはかつてと変わらぬ眩さで私達を照らし出していた。