やっとあけたね/翔×直人
健康で文化的な最低限度の生活を営むために必要なもの。
適度な休息。美味しい食事。好きな人と過ごす時間。
年末年始は、その全てが失われる。翔の職場はアパレルショップであり、役職は店長だ。休む隙など一秒足りとて存在しない。
仕事納めは十二月三十一日。仕事始めは一月二日。仕事納めギリギリまでスタッフ総出で福袋の準備をして、一月一日は店の大掃除、二日の十時より開店という地獄のスケジュールは毎年恒例だ。
それから怒涛の初売りをこなし、無休の一週間は一年よりも長く、一秒よりも短く感じられ、体内時計はいとも簡単に壊れた。
とはいえ、店長であるくせ、クリスマスイブとクリスマス当日に休みを貰っている身だ。それなのに、年始一週間で休みに入れるのは、スタッフ達が優秀だからに他ならなかった。
「さっさと休んでください。店長の惚気聞くより、他のスタッフの愚痴聞く方が百倍マシなんで」
なんて仰るのは若きチーフマネージャーだ。今日もまつ毛が完璧にセパレートしていて、惚れ惚れする出来だ。
「あ、今日のピアス初めて見た。コーデュロイとかフリンジ素材、ピッタリだよね。似合ってる!」
「いつも褒めてくださって、有難うございます。いいから早く帰ってください。もう三日ぐらいまともに寝てないんじゃないですか?」
「あ、バレた?」
「一緒に働いてるんで」
そりゃそうか。優秀すぎるチーフの目の下には何も浮いていないけれど、きっと涙ぐましい努力がそこにはある。
その点、努力を怠っていた翔は、そこそこ酷い顔になっているだろう。肌は青白く、目の下にはこの時期恒例のクマが出現しているはずだ。熊出没注意の黄色い看板を思い浮かべつつ、身支度を整えて「じゃあ、よろしく!」とスタッフに声をかけて店を出た。
びゅう、と吹き抜ける風に肩を縮こまらせつつ、これから始まる三連休に胸を躍らせる。軽やかにステップを踏んで、歌うみたく走れたら最高だ。むしろ、駆け出した一歩目で、家まで飛んでいければいいのに。
が、既に限界を三度ほど迎えた体では到底難しく、一歩強く踏み出しかけて、留まった。なんと俺は、大人だ。疲れ果てた、いい年をした大人。思考の飛躍に、改めてランナーズハイならぬワーカーズハイになりかけていることを自負する。
ひとまず今日は寝よう。明日からの三連休を素晴らしいものにする為に、必ず寝よう。
疲れを自覚した瞬間倒れそうになって、すぐにタクシーを捕まえた。後部座席の背もたれに体を預けるも、疲れすぎて逆に眠れなかった。
店の近くのホテルを予約し、シャワーと二時間弱の仮眠の為だけにそこへ帰る。そういう無茶な生活をしていたせいで、コンディションはなかなかに最悪だった。体重も少し減った、と思う。
もし、帰宅後に直人といい雰囲気になったとて、こんな調子では満足させられるわけがない。直人に会えなかった時間は、この三連休でしっかり埋める。直人もそのつもりで、休みを合わせてくれているのだ。焦る必要はなかった。
直人と出会った当時は、ずっと焦っていたと思う。誰にも取られたくなくて、早く自分のものにしたいという欲ばかりが前に出て、直人にも友人達にも、沢山迷惑をかけた。
けれどもう、昔とは違う。翔も直人も、成人して久しく、落ち着いた振る舞いが出来るようになった。
たかだか数年でここまで変われたのは、他でもない直人のお陰だった。
「おかえりなさい!」
鍵を取り出すより前に扉が開いて、満面の笑みで直人が出迎えてくれる。
え、足音で分かったの? と問いかけるより先に直人の腕が翔の首に回って、ぎゅっと抱きしめられた。直人の体温が、翔の冷え切った体に染み込んで、心の底からほっとした。
「ううっ……ただいま〜〜〜〜〜……っ」
「お仕事お疲れ様でした! ということで、寝ましょう!」
翔が腕を回して抱きしめ返すより先に、ひょいっ、といとも簡単に持ち上げられて、流石に驚いた。
「えっ!?」
「し、翔さん、軽くなってる……! いけない、明日からはお腹にたまるものいっぱい食べましょう!」
抱きかかえるというより完全にお姫様抱っこで、心底びっくりした後に、物凄く楽しく、嬉しくなってしまった。
これはきっと、空を飛ぶのとなんら変わりはない。翔がタクシーに乗り込む直前まで望んでいたものが、あっという間に叶えられてしまった。
魔法使いのような人だなと思う。
ちょっと直ちゃん、最高すぎるよ。素でお姫様抱っこって、かっこよすぎるでしょ。
「くっ、ははっ! あははっ、そうだね、明日からいっぱい太らせてもらわなきゃだね」
「はい、腕によりをかけて、超ハイカロリーの料理を作ります!」
「いいね〜。俺も一緒に作る! チーズが五種類入ったラザニア、オリーブオイルで揚げたピザ、味が濃すぎるフライドチキン、つなぎ無しのハンバーグ……」
「ちょっとしたパーティーですねえ」
「そりゃそうだよ。明日から三連休だよ!?」
「はい!」
廊下から寝室の距離は遠くない。辿り着いた先の扉は俺が開けて、恭しくベッドに座らされる。コートと靴下を脱がされて、はいどうぞと横にさせられた。
なんか、VIPになった気分。いや、VIP以上か。普通、こんなことはしてもらえない。完全に、恋人特権だ。
「あー、シャワー浴びなきゃ」
「とりあえず、少し寝てください。二時間後に、湯船に浸かれるようにしておきますから。お風呂で寝ちゃわないように、見張りもします!」
「うう、有難う……なんてよく出来た旦那さんなんだ……」
「大事な旦那さんの為ですからね」
「ふふ、うん、そうだね……」
喋っていると、それだけで目がしぱしぱしてくる。張り詰めていた糸が、あっという間に緩んで、心地よい眠気に全身が圧をかけられていった。じわじわと体温が上がり、瞼が下りていく。
「おや、すみ……」
体の真ん中に意識が集中して、いつの間にか何も聞こえなくなっていた。
直人はきっと、翔がぐっすりと眠った様子を見届けてから、静かに「おやすみなさい」と言うのだろう。
そういう人だ。優しい人だ。俺の、魔法使いだ。
目が覚めた瞬間、自分がどこにいるのか、一瞬分からなかった。
遮光カーテンの隙間から、日が細く差し込んでいる。光の強さに冬晴れを感じ、目を細めた。
暖房が効いているお陰で寒くはなく、けれどベッドから出るのはまだ少し億劫な感じ。きっと、まだ午前中で、なんなら朝の八時とか、その辺だろう。空になった右隣にてのひらを当てると、まだほんの少し温もっている。直人も、起きたばかりのようだった。
うー、と呻きながら根性で全身を伸ばし、意を決して起き上がる。二度寝の前に湯船に浸かった甲斐あって、疲れはすっかり取れていた。
今日からの三連休、素晴らしい時間が送れそうで何よりだ。
ベッドから足を降ろすと、キンと冷えた床の温度が足の裏に伝わってくる。否が応でも意識が冴える、この瞬間が翔は好きだった。
そのことを以前直人に伝えて、俺もです、と同意を得られたことを思い出す。
そういう、ささやかで、なんでもないようなことの積み重ねが、愛しい。
ペタペタと裸足のままリビングに向かい、入り口でスリッパをひっかける。すると、キッチンに立っていた直人と、目があった。
「おはようございます」
「おはよう」
ネイビー一色のパジャマは、翔がプレゼントしたものだ。マシュマロガーゼを使ったそれは、軽くて保温性が高い。形も相当拘ったので、直人の体のラインにフィットしている。緩すぎず、きつすぎない。
うんうん、今日も凄く似合ってる。明日も、明後日も、ずっとずっと似合ってるだろう。そういうものを、俺は選んだ。アパレル冥利に尽きるというものだ。
「コーヒー、翔さんも飲みますか?」
「うん、飲みたい。あ、じゃあ俺はトースト焼こうかな。直ちゃんも食べる?」
「ぜひ」
にっこり笑った直人が、すぐに何かを思い出したように「あ」と零した。キッチンに近づきながら「うん?」と問いかけ未満の相槌を打つと、直人が改めて翔に向き直る。
「あけまして、おめでとうございます」
「……あ!」
そうだった。年が明けた瞬間、悲しいかな翔は一人でホテルに居たのだ。直人を一人で過ごさせるのはあまりに忍びなく、実家に帰っていてもらったことも思い出す。
勿論、一番に声を聞きたくて、年が明けてすぐに電話はしたけれど。
翔も姿勢を正し、改まる。
「あけましておめでとうございます。これからもずっとよろしくお願いします」
ぺこりと頭を下げると「こちらこそ」と直人も頭を下げる。
そのままの姿勢で数秒停止して、ぷっ、と同時に吹き出した。声を上げて笑う。
「あっはっは! びっくりした〜。もう九日だよ? すっかり忘れちゃってた」
「でもほら、大切だから、こういうのは」
「だね。直ちゃんのご家族にもご挨拶行かなきゃな」
「みんな喜びますよ。優人、また大きくなりましたし、びっくりしてあげてください」
「ほんとに!? 凄いね、直ちゃんより大きくなるかもね」
だと嬉しいですね、と直人が感慨深そうに頷く。それと同時にケトルが騒ぎ出し、沸騰を知らせた。
ドリップコーヒーのいい香りがキッチンに広がる。
「でも、やっと明けたって感じがします」
「ごめんね。お待たせしました」
「え、何言ってるんですか」
直人がくるりと振り返る。トースターに食パンを並べ終えた翔も、直人の方を見た。
翔さんは知らないんですか、と問われる。
「待つのだって、本当に楽しいんですよ」
冬晴れを思わせる、凛として爽やかな笑顔が眩しい。
ああ、確かに今日から、新しい年が始まるのだ。
***
あけおめでした、その2(遅!)
バルミューダの電気ケトル、形も色も可愛すぎて凄く欲しい。
翔直はメイン家具を白、家電類を黒で統一していそうだなと思います。(翔の趣味)