人の顔が覚えられない

ずっと前から自覚していることなのだけれど、私はひとの顔を覚えるのが苦手だ。
もっと言うと、なんというか、人の顔をちゃんと見ることを拒絶している自分がいる気がする。この拒絶は昔よりはましになったかなと思いたいのだけど、未だに人物判別能力が雑魚なのをみると、どうやら変わってないらしい。
聲の形で、主人公が他の人の顔をちゃんと見られずにぐちゃぐちゃと線で隠されている表現があったけど、今それを思い出して、何年か前も同じようにこの描写と自分を対照させて逡巡していたのも思い出した。当時の私は何を考えていたのだろうか。

私は記憶力が良い方だと思っている。そうであるはずだと思っている。でも、そう思っていたはずなのに、なんとなく自分の脳の隙間からいろいろなことがこぼれていっているのを、近年感じる。

この間仕事術の本を読んだんです。コミック版ではあるんですが…….. で、その漫画内に出てくるシゴデキ枠の人が、人の顔を覚えられるように出会った人の顔をスケッチしたノートを作っていたんです。
また別の記憶になるんですが、大分前にappstoreで確かウィンドウショッピングをしていたときに、今まで出会った人とそのエピソードをまとめるためのアプリケーションを見つけたんです。
この両方を思い出して、そして自分の記憶の消失を思い出して、私も人のことを覚えられるように、そのアプリを使ったりして今まで出会った人の総プロフを作った方が良いのかなとちょっと思ったりしました。
私がそれを作るとなると、「個人的解釈」さらには個人的関係性解釈までたぶんに盛り込みそうで、かなりキモイものになるだろうなと思う。でも、私が他人に向けている最たる目がそれだから、他人に対する興味のいちばんの源泉がそれだから、そこまでしないときっと誰のことも覚えられないんだろうなと。それが気持ち悪くて、悔しい。

私はやっぱり他人と仲良くなれないんだということが最近分かり始めた。大学入って3年目、やっぱりここでも無理だったんだということを、もともとの自分の本質としてそうなのだということをまた認めないといけない時期にもうなってしまった。やっぱり私は同じ世界には居続けられない。昔はそういう暮らしがほぼ強制的だったのだけれど、それが私には好都合だった。そういう暮らしが私をそうさせたという部分も、まああるのだろうけれど。

他人と仲良くなれないといっても、決していじめられたりしているわけではない。でもわたしだけ、みんなが知っていることを知らなかったりする。私の脳内が個人的解釈で埋められているのは、埋めざるを得ないのは、たぶんこれが原因で。ほんとに後になって知らされたりする。「大泉洋みたいだよ笑」って笑っちゃいそうになるけど笑えない。大泉洋も私と同じ気持ちになってたらどうしようかと思うとその方をネタにして笑えない。こんな文をおお真面目に書いてる自分には笑ってしまうけど。

だからといって、みんなに色々情報を共有してほしいとか、もっと遊びに誘ってほしいとかそういうわけでは多分ないのだと思う。陰キャアピール寂しいアピールムーブを周りにさんざん(正確にはちょくちょくなはず……)やっておきながら(振り返るとえげつないことをしている)、自分が何を求めているのか、自分はあまり分かっていない。私が情報格差でゆるゆると首を絞め殺されているのは、私が他人を知ろうとする行動を自分から取ってきていないことにもあるのだと思う。人の顔を覚えられないのは私に人と仲良くなる気がないからなんじゃないかと問い詰められているような気持ちでいる。

他の人にはあるものが、自分にだけ欠けているのかもしれない、ということが、ただただ、どうしようもなく悲しいのだと思う。



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