文学賞に落ちた話

 文学賞に落ちました。2回目です。しかも、あんまり良くないことと分かりつつ一度落ちたやつをちょっとだけ修正して出しての2回目です。

 初めて文学賞に応募した話も、そしてその賞に最終選考にすら残らず落ちた話も書こうと思ってたんですけどいつのまにか時が過ぎてました。
 最近は好きなものの感想みたいな話ばかり書いてるんですけど、それは自分が素直に何かを好きになれるのだという感覚に嬉しくなってしまっているからです。この話も記事を分けて書きたいなと思ってはいるのですが……

 今から寒気がするようなことばかり続きます。書きながら自分はこんなに無礼だったんだなと感じています。

 はじめて賞に応募したとき、まさか自分がこの程度の賞に落ちるわけがない、少なくとも最終選考には残るだろうと思っていました。
 なので「あれ? そろそろ授賞式の時期だけどなんも連絡きてないぞ(笑)」とwebサイトを確認して私はなんにも選ばれてないことを知ったときは結構衝撃だった記憶があります。なんかすんごい身体が熱くなって動悸がすごかったのを今回の落選で思い出しました。
 自分は他の人と違って作家の才能があるのだと思ってる節があって、他人の文章には足りないところをすぐに見つけられるのに、その視線を自分の文章には向けることができていないようです。
 落選を知ってからちょっと後、改めて提出した自分の原稿を(同人誌に載せる&書き直して再応募するため)割と冷静になって見た時、なんで自分はこんなので通ると思ってたんだろうと思いました。この記事を読んでいて感じるかもしれませんが、私の文章は拙いし、そして何より物語として成立するほどの内容がない……

 今回も1次落ちです。「やっぱりカテゴリーエラーだからこの賞なら大丈夫でしょ」と性懲りもなく思っての応募です。いま自分の原稿は怖くて見直したくない…… 私はまだ何にも力がないのだとさすがにちょっとだけ気づきました。

物語に必要なのは何よりも内容であって、小手先の文章の上手さではない――
そう思って私は、自分に「それっぽい」経験をさせてきました。実際の当事者よりもリアリティのある話は誰にも書けないだろって…… これはある種の怒りなのでしょうね。
 何度いじめまがいのことをされても、虐待まがいのことをされても、自分が実際どれだけ辛かったとしても恥ずかしかったしても、自分の経験はまだ「マシ」な方だし、私はそれを私がネタにするには適度でちょうど良いイベントだと思ってきた。「美味しい」と思ってきた。
 それはこんな経験をすればするほど自分の小説は良くなっていくはずだとの思いからでした。
 でもそれは自分が辛さから逃げるための防衛機制なんだと気づいた。
「自分に『それっぽい』経験をさせてきた」と言ったけれど、「それっぽい」経験になるたびに状況を改善させず放置してきたという方が正確なはずです。「小説を書くこと」を逃げに使ってきた。
 表現に対しても、私が向き合うことを避けていた周りの人に対しても、失礼なことだった。

 大事なのは経験じゃなくて、どれだけ自分の心を掘り下げられるかだ。私が一番苦手なことだ。経験より上位の概念に気づいていなかった。
 ちなみに小手先の技術を否定しているだけで技術は要らないと思っているわけではないです。当たり前だと思われるかもしれませんが、スキルを自分の言葉として使いこなすことが大事なんだと思っています。

 私は書いているだけじゃ満足できない。読んでもらわなきゃ意味がない。なりふりかまっていられない。
 大学に入って、色んな書き手の人たちに会いました。そこで募った思いを改めて感じました。
 サクセスストーリーを辿ってちやほやされるのでもなく、評価されないことに開き直って悦に浸るのでもなく、ただ自分の文章を読んでもらいたい。 
 その感情は自分の一部にしか過ぎないけど、そういう自分の気持ちをもっと押し出していかないといけない。
 これはもちろん綺麗ごとだけど、でも究極の言葉は「記号」でしかなくて、それは中立で綺麗なものだ。
 小説は綺麗ごとで勝負する世界なのだ。自分はまだまだ汚いものが好きすぎる。今日そんなことを私は思った。


 

 

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