【いまさら読書感想文】肉体を引きずる/推し、燃ゆ
noteはじめました!などとぬかしてもう4か月以上経過している。
なんと、決めたことを続けられないことか。とても情けなく思う。
何をしていたかといえば何もしていない。仕事もそれなりの忙しさだし。
モンハンはなんやかんやで毎週やっている。はやくG級が来てほしい。
あとはなんだろう。曲を書いてます。久しぶりに。
それと、久しぶりにバンドをやることになった。といってもスタジオで合わせる程度のだが
生の楽器を生の感覚で合わせるということはもう随分とやっていない。
コロナという状況が落とした影は、物理的な隔絶をも生成しており、それに触れるとなぜだかモチベーションも吸い取られていくようだった。
などと、つらつらと前置きはしているが
ここ最近、目覚めたかのように読書をしている。大学時代の感覚を取り戻しているようだ。
高速バスの暇つぶしに読んだことがきっかけで、「あ、俺字読めるんだな」と思ったら
そこから堰を切るかのように本を読み始めた。といっても高ペースではない。
今に至るまでいくつか読み終えた本が溜まっているので、読書感想文などを書いていこうと思う。
恐らくはしばらくはこれらがnoteの中心になるであろうと感じる。漫画や音楽(ライブ)やお笑いのこともたまに書いたりするかもだけれど、
今のうちでそんなことを明言しても、やらなかったときの自分を責めるだけなので明言はしない。読書感想文についても同様。
ちなみに、感想を書く書籍たちについては、「今更」なものが多いと思う。いわゆる最新刊というものはあまり触れないであろうと思う。
「いまさら読書感想文」とでも、ラベルを貼っておこう。
ちなみに存分にネタバレはあるので、ご注意。
#宇佐見りん
#推し燃ゆ
#河出書房新社
とか言っておいていきなり近刊じゃねぇか。ということは、別に言われないであろう文句なので謝りません。
みなさんご存じ誉ある賞「芥川賞」第164回の受賞作品。
作家の宇佐見りん先生は1999年生まれの静岡県生まれ神奈川県育ち。
静岡 神奈川というと、非常に(勝手な)親近感が沸く。あまり生まれ育った地域に思い入れは持たないタイプなのですが。
話の概要としては
主人公の推すアイドル(男性)がファンを殴って炎上。主人公はブログのようなものを運営しており、ファンの中でも結構な有名人(ネット上だけで)。
生きていく重み、肉体の重みに苦しみながらも、それを削って推しを推していく。
推しを擁護するわけでもなく、恋慕するわけでもない。ただ、人生をかけて推しの考えを、見た景色を、生き方を咀嚼して理解しようとする。
「なぜ、推しはファンを殴ったのか?」推しを理解しようとする行為、自分と重ねて、そしてその隔絶に面したとき。
自分が引きずってきた肉体は、どうなってしまうのだろうか。
と、こんな感じ。
タイトルからもわかる通り、「推しを推す」。
あえてとてもわかりやすい表現でいうと「熱狂的ファン」である主人公を題材とする作品で、一見すると、炎上するアイドルをその身体が燃え尽きるまで推し続けて燃焼してしまった話 ととらえてしまうかもしれない。
もちろんそれも主題の一つだ。推しに対して自分との共通点を感じながらも、自分の全身全霊をかけて理解するという行為。
ただ、また別の本質は概要に記した「肉体の重み」にあると思う。
「発達障害」は近年、いわゆる「現代病」の一つとして注目されている病気(障害)だ。
正確に言えば、一般的な認知度が低く社会問題としてそこまで浮上していなかった という言い方が正しいように思う。
忘れ物をする マルチタスクができない 落ち着きがない 人の話を聞けない 人が理解できることを理解しきれない
など、いわゆる「人が当然のようにできることがうまくできない」という「病気」が「発達障害」という名を冠している。
今でこそ、この病気は周囲の理解を得始めているが、もちろんそれは完全ではない。
何故ならそれ以外はごく普通であり、ただその部分だけが欠けているにすぎないからだ。
そしてたったそれだけの障壁が、社会と自分を隔てるには十分すぎることもある。自分から社会もそうだが、社会から自分に壁を張られてるイメージ。
主人公は、常にこの「生き辛さ」に耐えており、そしてほぼ完全にあきらめている。
ここで悲しいのは、教師や家族もそれを一種の「甘え」として片づけてしまっているということだ。
これがより、主人公が自分の愛する世界へ没頭する原因にもなっていく。
「肉体」というフレーズ、もしくはそれに類する表現はこの物語では散見される。「生きていくことに必要なもの」が「邪魔」であるかのように、それらはネガティブな印象を読者に与える。
自分の思い通りに動かない思考、体。これらを受け入れ抱えて引きずりながら生きるという表現が、主人公の「生き辛さ」に拍車をかけていく。
バイトで複数のことに気が回らないシーンなど、かなりリアルに、主人公がうまく物事をこなせない様が描かれている。
そんな体の背骨。それが彼女にとっての「推し」だった。自分のかけた何かを補填するように彼女は推しを推すことに没頭していく。
そしてそれが失われた時。彼女はその肉体の重みに耐えきれず、頭を垂れてぐにゃりと曲がってしまう。一人残された空間でだ。
自分が死んだとき、自分の骨を拾うのは自分だけ…
「推しを推す」ことが人生の根幹となっている人も多いだろう。そしてそれが失われた時の喪失感ははかりしれないものだ。
それに、「生き辛さ」という、自分だけが背負わなければならない重みが加わる。何もかも失って、肉体の重みだけが残ってしまう。
この小説は、この鮮烈な炎を。体を焼き切るような熱を鮮やかに描きつつ、言葉にできない苦しみを「肉体」という表現を通して読者の痛覚に訴える。
何かのコメントで見たけれど間違いなくこれは歴史に残る作品なのではないか。
「推し」という、概念自体は存在していたが最近形を成したであろう言葉は現代の文化そのものであり
それを題材として、その心理をうまく通しながら、世代をはじめとする「理解」というものの隔絶を形にして「人間としての生きにくさ」を書ききった。
とにもかくにもこれは若年層が描く2020年代を生きる人間の物語としては、時代を映す文化的な側面がある。なので、これは歴史に残るし、明確なマイルストーンであると感じた。
これが「芥川賞」を通して、一般社会に投石されたことに価値がある。
何故ならこれを読んで、主人公に対してどう感じるかで、その人の人間性すらもはかれてしまうから。
少なからず、今までの人生でこの主人公のような人たちに出会ったことはないだろうか?
それに対して「甘えだ」とか「ダメなやつ」と心のどこかで思っていなかっただろうか?
「発達障害」という「周囲の理解」が必要な障害。
行き場を失ったその魂のくすぶり。
そこまで想像できる読者とできない読者があぶりだされてしまうのではないか。
ハッピーエンドではないが、刹那の輝きを持っている作品。
自分が漠然と抱えている「生きにくさ」をも言葉にしてもらった気がする。
以上が「推し、燃ゆ」の読書感想文でした。
それではまた。