LifeWear magazine 解読 04
はーい、みなさん、お元気でしょうか?
前回からまたまた少し時間が経ってしまいました。すっかりお忘れかと思いますが、全然気にせずいきますよ!LifeWear magazine 解読 第4回です。
そして今回はJil Sanderさんの第3回目でもあります。
願わくば今回で終わりますように!
■前回の復習
そこで簡単にJilさん第2回の復習をしておきましょう。
ドイツ・クレーフェルトの繊維専門学校で学ばれた後、アメリカに留学しますが、故郷での父の急死を受け、帰国。そこでファッション誌のエディターとして働いていて、発信する情報が認められ、服のデザインの依頼を受けます。そこからデザイナーとしてのキャリアがスタートしました。70年代・80年代は不遇の時代でしたが、香水の売上でなんとかしのぎ、90年代になってようやく彼女のファッションが認められる時代がやってきます。
ここまでが前回「Jil Sander 02」でした。
さあ、では続きとまいります。
■90年代という時代
Jilさんがようやく飛躍を遂げる90年代とは、どんな時代だったのでしょう?
沸騰した鍋のようだった80年代が泡と去り、インターネット革命前夜、当時の日本在住者なら誰もがポケベルの広末涼子(1996)に淡く恋した時代。
小沢健二が『天気読み』(1993)でデビューし、ヒップホップ『今夜はブギー・バック』(1994)で渋カジ・ストリートをメインストリームへと導いた時代。
ハイファッション(最先端の流行)からリアルクローズ(現実的な服)が産み落とされようとしていた時代。
高級志向、欲望消費社会をよしとするシステムに対するアンチテーゼが様々な形で具体化していった時代。
そしてなにより、ヘルムート・ラング(Helmut Lang 1956-)が登場し「ミニマリズムの旗手」と呼ばれた時代でした。
■ヘルムート・ラング 01
ヘルムート・ラングの影響がいかに大きいのか。
現在みなさんのクローゼット(closet)の中にもあるんじゃないですか?
・フラット・フロント・パンツ
これ、日本では「ノータック・パンツ」と呼ばれているものだそうです。
・男性のスリー・ボタン・スーツ
わたし男ながら知りませんでしたが、それまでは2つボタンだったそうですね。
・ロー・ライズ・ジーンズ
いわゆる股上の短い、あれですね。
これらはみーんな、ラングさんが1990年代〜2000年代にかけて開発した商品だそうです。
<ラングさんの経歴>
1956年3月10日、オーストリア・ウィーンに生まれる
3歳の時両親が離婚、母親と住むが、母親は死亡、靴屋の祖父母に引き取られる。
10歳のとき、父親と住み始める。
独学で服作りを学ぶ。
1976年、自身のブランド「Helmut Lang」をオーストリア・ウィーンに設立。
1979年、オーストラリアで流行する。
彼のデザインは無駄のそぎ落とされたミニマリスズム、デコンストラクショビストつまり脱構築が特徴的なデザインです。
シンプルで、しかし洗練されたデザイン、黒または白のスリムスーツ、そしてハイテク素材の使用で、1980年代後半に有名になりました。
川久保玲(1942-)率いる「コムデギャルソン」
山本耀司(1943-)率いる「ヨウジヤマモト」とよく比較される
1999年3月、プラダの傘下に入る。
2004年12月、プラダの完全子会社となる。
2005年1月、Helmut Lang自身がデザイナー退任。
2006年、日本企業に売却される。
上にもありますが「シンプル、洗練されたデザイン、黒または白のスリムスーツ、ハイテク素材を使用」といった特徴はJilさんと同じですね。
だからJilさんは「Queen of Less」と呼ばれ、ミニマリストと称されています。
■ミニマリズムとは
ところでJilさんやラングさんの代名詞である「ミニマリズム」とはなにでしょうか?
Wikipediaによりますと、ミニマリズムは第2次世界大戦後西洋で始まり、特にアメリカで60年代から70年代初頭にかけて興隆した芸術運動の一つだということです。
Jilさんは1943年ドイツ・ハンブルクに生まれ、63・64年はアメリカ・カリフォルニアに留学してますから、まさに生まれてまもなくからミニマリズムに囲まれていたことになります。ミニマリストになったとしても不思議はないのかもしれませんね。
ミニマリズムという運動というか思潮というか、それは今現在でも進行中で、芸術運動という形から、より広汎な生活思想・生活様式のひとつとして展開中のようです。(Neflixをご視聴中の方なら「ミニマリズム」というドキュメンタリーを見れます。ミニマリストとして暮らすことの雰囲気がよくわかると思います)
the minimalistsというサイトによりますと、ミニマリズムとは
「ミニマリズムは、あなたが自由を見つけることを支援することができるツールです。恐怖からの自由。心配からの自由。あなたを押しつぶそうとしてくるものからの自由。罪悪感からの自由。抑うつ状態からの自由。私たちが私たちの生活の周りに構築してきた消費文化が要求してくる見栄を張ることからの自由。本当の自由」
だそうです。
今日のわたしたちの生活はモノにあふれているけど、そうしたモノたちは、わたしたちの生活をより豊かにしてくれるのではなく、むしろそのモノたちの奴隷となる生活をわたしたちに強いているのではないか?
このサイトの運営者であるジョシュア・フィールズ・ミルバーン(Joshua Fields Millburn)さんとライアン・ニコデマス(Ryan Nicodemus)さんはこのことに気づき、そこからミニマリストとしての生活をスタートされていったようです。
こうした考えが、Jilさんやラングさんの、不必要なものは捨ててしまい、徹底してシンプルなデザインを心がける、という思想に通底しているのは明らかです。
■ヘルムート・ラング02
ファッション界を振り返ると、
80年代 = ポストモダン、ゴージャス
90年代 = よりミニマル、コンセプチュアル
と特徴づけられるようですが、この90年代の特徴としての「ミニマリズム」をファッション界に完全な形で取り入れたのが、ラングさんだと評されています。
よくテレビで見かけるファッション・コレクションでは、ランウェイ(滑走路)と呼ばれる細い道を、ステキなモデルさんたちがステキな服を着て歩いたりポーズを取ったりしている光景がありますが、これに対して「なんで?」と疑問をもち、自身のコレクションをオンライン配信という形で発表し始めたのがラングさんです。
またラングさんは、みんなが普通に通りで着ているような(ジーンズやTシャツなどの)日常の服や、警察官の着る制服をハイ・ファッションとして再定義してみせました。
ジーンズに(ラバーベースだから洗える)絵の具を撒き散らして、画家が履いているもののようにしたり、バイク乗りのためのジーンズを高級ブランドであるバルマン(Balmain)が売り出したりするようにしたのもラングさんです。
■90年代、Jilさんの活躍
こうしてラングさんがファッション界を、「ミニマリズム」によって、言わば整地してくれたからこそ、90年代になってJilさんが活躍できるようになったようです。
時代の流れが変わったのです。
89年、ジル・サンダーはドイツ・フランクフルトで株式上場を果たし、海外進出できるほどの資金を手にすると、すぐに国際的な支持を得ます。
95年にはジル・サンダーグループの売上高は1億1400万ドル(当時のレート(1ドル=79円75銭!)で90億円ほど)に達しました。
97年秋冬より、メンズラインを開始、98年プーマとコラボレーションし、レザースニーカーを発表。
ところが!
99年、プラダ・グループが絶頂期にあったジル・サンダー社の株の75%を取得し買収してしまいます。
2000年には、プラダの総帥パトリッツィオ・ベルテッリ(Patrizio Bertelli,1946-)
との不仲により、Jilさんはこの年の秋冬コレクションを最後に、ジル・サンダー社のデザイナーを辞めてしまいます。
自分の会社なのにそこを辞めざるを得なくなったプラダ総帥との不仲は、素材の品質を落としたくないというジルさんと、コストを考える総帥の対立から始まったようです。
この99年にプラダがよそを買収したっていう下り、どこかで見ませんでした?
そうです。
あのヘルムート・ラングも、99年3月にプラダの傘下に入り、2004年には完全子会社化され、翌年ラングさんも自身が起こしたブランドのデザイナーを辞めたのでした。
■プラダとは
というわけで、プラダについて述べなきゃいけません。
プラダはイタリア・ミラノに本社を置く、イタリアを代表する高級ファッションブランドを展開するアパレル企業です。
そもそも最初は1913年にプラダ兄弟によってミラノで開店された皮革製品店でした。
その創業者の孫娘に当たるのが現在のプラダのデザイナー、ミウッチャ・プラダ (Miuccia Prada,1949-)です。彼女は 同じく皮革製品店をやっていたパトリッツィオ・ベルテッリ(Patrizio Bertelli,1946-)と1977年に知り合い、1987年に結婚します。
このパトリッツィオ・ベルテッリこそが現プラダの総帥であり、99年に「ヘルムート・ラング」や「ジル・サンダー」を買収した本人です。
プラダがアパレル業界に参入したのは比較的最近のことです。
85年に靴、89年に婦人服、94年に紳士服のコレクションをスタートさせ、93年にはブランド「ミュウ・ミュウ(Miu Miu)」を立ち上げます。
この頃から同業他社の買収を始め、事業の多角化に乗り出します。
その一環として買収されたのが、「ヘルムート・ラング」と「ジル・サンダー」でした。
しかしこれら創業者の個性的デザインによって売ってきたブランドは、その創業者が抜けると、カッパに尻子玉を抜かれた人間のようなもので、すぐにヘナヘナになるのでした。
財政難から、プラダは「ヘルムート・ラング」「ジル・サンダー」ともに2006年に売却してしまいます。
こうして自身のブランドを出ることになった2人ですが、ラングさんはその後すぐにデザイナーを引退してアメリカ・ロングアイランドを本拠地とする芸術家となり、抽象的な彫刻の形態や人体の限界を超えた物理的な配置や空間を探求しているとのことです。
われらがJilさんは、2000年に自身のブランドを出た後もデザイナーとして紆余曲折を経ることになります。
■その後の「ジル・サンダー」とJilさん
2000年の1月にJilさんが辞めてしまうと、ほぼ全員のデザイン・制作スタッフも「ジル・サンダー」を去っていきました。
2001年、「ジル・サンダー」は初めて940万ドルの純損失を計上。
2002年、ロンドンとニューヨークでの小売店追加のコストにからんで、3040万ドルを失います。
2003年5月、プラダの呼びかけによりJilさんは「ジル・サンダー」のデザイナーに復帰。
2004年春夏ミラノコレクションを手掛ける。
2004年11月、プラダとの不調和により、再度辞任。
2006年「ジル・サンダー」は投資ファンド会社(Change Capital Partnership)に売却される。
2008年日本のオンワード・ホールディングスが「ジル・サンダー」を買収。
2009年、Jilさんはユニクロとデザイン・コンサルティング契約を結びます。
ユニクロの商品メンズ/ウィメンズ商品全体にJilさんがデザイン・クリエイティブ監修を行い、また特定のコレクションのデザイニングそのものを行うことが主な内容となっていました。
ユニクロからJilさんへのオファーは、2008年の4月のことでした。
Jilさんは2004年に「ジル・サンダー」を辞めて以来、様々なオファーを受けていましたが、それらをすべて断っていました。
しかしユニクロからオファーを受けたときは違いました。ユニクロの品質に対する情熱や姿勢が彼女の心を捉えたのでしょう、Jilさんは自身のコンサルティング会社、JS Consultingを設立してユニクロとコンサルティング契約を結んだのです。
Jilさんは、ユニクロの2009年秋冬の全商品を監修しました。
さらにJilさん自身によってデザイニングされるコレクション「+J」を発表。2009年秋冬シーズンより、ユニクロ店舗およびオンラインストアにて販売を開始しました。
2011年「ジル・サンダー」は春夏シーズンより「ジル・サンダー ネイビー」の展開をスタート。
「ジル・サンダー・ネイビー(Jil Sander Navy)]は「ジル・サンダー」よりも買いやすい価格の商品という位置づけで"エクステンション・ライン"として運営された。
2013年秋冬コレクションの後、Jilさん再々度デザイナーに復帰。
2014年春夏コレクションの後、Jilさん再々度辞任。
2019年春夏シーズンの後、「ジル・サンダー ネイビー」の展開を終了。
2019年秋冬シーズンより、「ジル・サンダー +」の展開をスタート。
「価格帯やターゲットはメイン・ラインと同じながら、異なるライフ・スタイルを提案するもの」(広報担当者)
そして2020年、ユニクロは再度Jilさんと手を組みました。
2020秋冬コレクションのテーマは「洗練されたエッセンシャル」。
11月13日より「+J」の復活コレクションが発売されます。
ウィメンズ32アイテム、メンズ25アイテム、グッズ4アイテム、全部で61点。
フルラインナップは国内48店舗とオンラインストアで扱い、一部の商品は全店舗で販売されるとのことです。
詳しくは下の表をごらんください。
■インタビュー
Jilさんは、インタビューで服以外の質問にも答えています。
Q.ライフワークとして庭造りを続けていらっしゃいます。服のデザインだけでなく、空間をデザインすることでどのような視点が得られますか?
A.ある意味、そのふたつの間には違いはありません。私は常に、建築家の視点でものを考えているからです。私が追求するのは、3次元のスペースにおけるエネルギー的な可能性です。私は田舎で何年もかけて英国式庭園を造ってきましたが、偉大な造園家であるガートルード・ジーキルのファンでもあります。彼女はアーツ・アンド・クラフツ運動と同時期に活躍し、その親しみやすい庭園デザインは、緊張感のある古典的な英国式庭園とは一線を画します。私の造る庭は、その両方の要素を持っています。広々とした景観と、囲われた花壇、バラの生け垣、家庭菜園、瞑想的な空白のスペースなどです。ガートルードは、こう書いています。「庭は偉大な教師だ。庭は、忍耐と丁寧な目配りを教えてくれる。勤勉と倹約を教えてくれる。そして何より、完全な信頼とは何かを教えてくれる」。
(『LifeWear magazine』 p.50,Q11 およびWeb上の記事(https://www.uniqlo.com/jp/ja/contents/lifewear-magazine/jil-sander/)のQ15より。太線はわたし)
ここに出てくるガートルート・ジーキルという人、博士みたいですが、そうではないようです。
Gertrude Jekyll 1843-1932
イギリスの園芸家、作庭家。ほか画家、工芸家、著述家としても活躍。ウィリアム・モリスらのアーツ・アンド・クラフツ運動に共鳴し、美術工芸家として出発、のち目を患ってからは園芸の世界をも手掛けた。19世紀から20世紀にかけて、英国でアマチュアの園芸作家として活躍。植物を形や質感、そして色彩によって配置する作庭手法を編み出した先駆とされる。 (by Wikipedia)
ヘクタースクーム・メインガーデン
https://gardenstory.jp/gardens-shops/23045より
第1回にも出てきました、ウィリアム・モリス、そしてアーツ・アンド・クラフツ運動。やはりJilさん、どこまでいってもこのあたりのコンセプトが彼女の中の強い芯としてあるのですね。
インタビューの中にある「3次元のスペースにおけるエネルギー的な可能性」ということばには注目させられます。前回ご紹介したインタビュー(雑誌でのQ.7)にもありました「どこからエネルギーが入ってくるのか」ということばにも呼応して、Jilさんのデザインの中心には「エネルギー」という考えがあるようです。
これは最後のインタビューにも表れています。
Q.より良い未来のために、洋服があるべき姿とは何だと思いますか?
A.丈夫で、長持ちすることが重要です。そして、着る人の支えになれること。
グローバルな世界において多くの人が必要としているエネルギーと自信を、着る人に与えることができる服でなくてはいけません。
(『LifeWear magazine』 p.50,Q16 およびWeb上の記事(https://www.uniqlo.com/jp/ja/contents/lifewear-magazine/jil-sander/)のQ21より。太線はわたし)
ファッションって見てくれだけを相手にするものだと、わたしは思っていたのですが、Jilさんを勉強させていただくと、決してそんなものじゃないことがわかりました。
その服を着る人の支えとなるような服を作る。
これってもう、宗教とか思想とか運動とかの目指すものと同じじゃないですか。
なんでもそうですが、やる人がやると、なんでもすごいものになるんですね。
ということで、長かったです。
Jil Sanderさんの回、今回で終了となります。
■次回予告
次回は「The Art and Science of WHOLEGARMENT」を解読していきたいと思います。
Catch you later !