「一生を終えてのちに残るのは,われわれが集めたものではなくて、われわれが与えたものである」
地球上に生まれ落ちた瞬間に、「おめでとう」といって渡される真っ白なキャンバス。そのキャンバスは、いつか燃やされることは分かっている。自分なら、そこにどんな絵を描きたいのか?
作家・三浦綾子さんは「続氷点」の中でそう書きました。
進路選択に迫られる中で、少し時間に余裕がある最近はよく「自分は何がしたいのか」ということをよく考えます。
46億年の地球史からするとたった一瞬の私の人生。
それがいつになるかは分からないけど、いずれ確実に死を迎えて灰になる。
私が死んだときに泣いてくれる人の記憶に残っていたとしても、
泣いてくれた人もいつか灰になる。
「ゼロ」になる。
就活を控え、“いずれ燃やされると分かっているキャンバス”に自分はどんな絵を描きたいのか、改めて考えています。
岡本太郎じゃあるまいし、私一人の一生が世界に与えるインパクトなんて、何もありません。
だから、たとえば資産を残そうとすることに何の意味もなく、毎朝起きた時をスタートラインとして、「自分がやりたいことをやる」ことに集中するのが最も正しい人生の使い方なんだろうな、と思います。
しかし、いざ就活となると、「キャリアプランが大切だ」とそれっぽいことを考えてめちゃくちゃ保守的になっている自分に気がつきました。
企業や団体に所属することで安心感を得ようとしていたり、事業内容を読んで「ここでなら納得して働けそうだ」「キャリアを積み上げながら人生を組み立てることは大切だ」と自分自身を説得してみたり。
少し前のジブンみたいにパッションを燃料に動けていないな、ということを痛感しています。
どっちみち「ゼロ」になるんだから、アンテナが反応するままに足を前に出せばいいだけなのに。
********
いつかの記事に書いたみたいに、自然の一部として生まれて、自然の一部に還ることができること野生生物は本当に美しくそしてかっこいい生き方をしているな、と感じます。
人間のわたしは、気を抜けば、資本主義経済の歯車の一部となるような、本当に人間らしさに縛られた人生を歩もうとしてしまいます。
キャリアを積む=本当にやりたいことを先延ばしを意味します。
しかし、年取った後に今の私が考えている「本当にやりたいこと」ができるのか?と考えたら、それは随分怪しいと思います。気力的にも、体力的にも。
私のやりたいことは、野生動物の生き方を通して、人々に自分の生き方を見直す機会を提供することです。
舞台は中南米のジャングルです。
そうはっきりといえます。
あとは勇気をもって、踏み出すだけ。
********
さて、明日は一つ面接があります。
いわゆる「キャリア」的には微妙かもしれない案件ですが、私のやりたいことに比較的近いもの。(ただ、こちらも所属系なので、やはりまだ岡本太郎化とはほど遠いのかもしれません)
今、岡本太郎が隣にいたらこういってくれると思います。
積み重ねるな、積み減らせ、と。
そして三浦綾子さんは、タイトルの一文を以て背中を押してくれると思います。
自分の一生を通してわたしが誰かに与えられるものがあるとすれば、それは生き物をみる新しいレンズなのかもしれません。
とりあえず、今できる自分なりの一歩を踏み出してみようと思います。