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多様性の消費

「多様性」という言葉を耳にする機会が増えたのは、ここ10年くらいだと思う。性の多様性、価値の多様性、働き方の多様性…等々。挙げたらキリがない。

多種多様な考えや存在を知ることは自分の人生にとって価値あるものになる。年齢を重ねるほど、世界はこんなにもおもしろいのかと感じることが多くなった。それを知る、受け入れるハードルも年々下がっている。大体ぜんぶおもしろい。あ、勿論だけどここでいう「おもしろい」はfunnyではなくinterestingね。funnyな人からinterestingなことを知る機会はたくさんあるけども。

世の中が徐々にマイノリティを受け入れる流れになりつつある中で、多様性を振りかざして人を殴るようなことも増えつつあると感じる。

なんで認めねえんだこの野郎!多様性を認めろ!多様性を認めない世の中は悪だ!!

いやいや、それ、余計に生き辛くしてない?

もう少し若い頃の私は殴る側だった。大学の卒論テーマは「産まないことを選択する女性」。キレる22歳。評価はCだった。切れ味悪いな、おい。

声を上げることは悪くない。だけど度が過ぎれば本末転倒でしかない。やっぱりあいつらは危険な存在なのだと認知される。

同性婚とか男性の育児休暇取得とか、制度として認められないと物事が進展しない問題もある。これには「理解」が必要なんだよね。理由を説明して、メリット・デメリットを明らかにして、試験的に実践して…と、段階を踏まないと実現できない。こっちのほうが重要なんだけど時間がかかる。

けれどそれ以外のこと、例えばLGBTについてだったり、精神疾患や発達障害についてだったり、一定数そういった人が存在しているんだという事実。これは「理解」ではなく「置いておく」というスタンスでいいんじゃないかな、と当事者として思う。これはコツさえ掴めばその場で出来る。あら簡単。

受け入れるに近いニュアンスなんだけど、もっと遠い距離感で大丈夫。「そうなんだね。まあ、なんかあったら言ってよ」くらい。「えっ…大変だね…大丈夫?話聞くよ?」あ、いや、大丈夫なんで大丈夫です。近すぎても困るんだよなあ、わがままで申し訳ない。理解しようとしてくれていること、助けようとしてくれていることはとても有り難いけれど「そうじゃない理解のされ方」がいちばん嫌なんだ。共感してほしいわけじゃない。「いろんな人がいるからね、多様性ってやつだよね」で片付けないで。

多様性の塗り足しで壁は分厚くなる。インクを消費すればするほど色彩は濁る。こんな絵にしたかったわけじゃない。それを面白おかしく利用する人もいる。勝手に人が塗った壁の前で映えてんじゃねえよ。

それが、そこに在ること。退かすことも飾り立てることもせず、在る場所に置いておく。

多様性を認めるってそういうもんじゃないかな。


汎用性が高い単語ランキング上位の「多様性」と「一般的」とで喧嘩するの、もうやめへん?








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