志が大きくなると他の志とぶつかりが生じる
僕がよく、「争わない」とか「ぶつかりを無くす」とか、「系の外に飛び出して考える」とか、「相手のことも考える」とか言っていますが、これは決して「自分の考えを押し込めて相手の言いなりになりなさい」と言っているわけではありません。
「和」というのはとても大事です。ただ、ともすると「みんながこうしているのであれば、同じようにすればいいや」とか、極端になると「言われたことを受け入れて、何も考えなくなる」こともあるわけです。
ある意味、「志」を失った僕たちは、この極端な「和」の状態にあるのではないでしょうか。
今、僕たちが直面している社会的な現象も、そのことを表しているかのように思います。
では、志を持ったらそれでいいのか…。
志が大きくなってくると、志同士がぶつかるようになります。その極端な例が「戦争」ということになるのですが、志が大きくなればなるほど、他の志とぶつかりが生じるようになってきます。
ということは、「志」も「和」も持たない方がいいのか。あるいは、他の「志」とぶつからない程度の大きさの「志」を持つべきなのでしょうか。
どちらも、中途半端になってしまいますよね。
武学ではこの部分をどのように考えているのか、一言で表すと
「禮で和する志を成就する」
になります。
禮(礼)の話は、今までも何回かしてきたので、ここでは省略しますが、禮によってぶつからない(悟り・差とり、ゼロ)「和」の状態の志を成就していくという考え方です。
ぶつからないという時点で、特定の国、人種、宗教、価値観に寄らない志ということになりますので、たとえ志が大きくなったとしても、ぶつかりようがないわけです。
つまり、志が大きければ大きいほど、それだけ大きな「和」が必要になるということです。
では、そのような状態になるには、どうしたらいいか。
「禮(礼)」からスタートすることです。
まさに、
「禮に始まり、禮に終わる」
です。
というわけで、今日も「禮」からスタートいたします。