キラキラネーム問題は自己命名権で解決できる
いわゆるキラキラネームという「従来の常識からすると奇異な命名」の問題は深刻化しています。いまや、幼稚園や小学校の名簿の中で、「ふりがななしで読めない」または「ふりがなが漢字から想像できない」名前がごくふつうに見られる時代です。
奇異とまではいわずとも、「心」を「ここ」と読み、「翔」を「と」と読むような、訓読みの一部だけを使うような読み方も定着しつつあります。
キラキラネームを付けた親が「無教養な親」だと判断されるだけならまだしも、被害者は「キラキラネームを付けられた子供」です。成長したとき、名前がからかいやいじめの対象となったり、就職で不利になるという事例は後を絶ちません。これもまた「親ガチャ」の1つ、あるいは「名前ガチャ」と言えるでしょう。
親ガチャという言葉は「親を子供は選べない」ということが前提にあります。とすれば、自分で選ぶことのできない「名前」も「名前ガチャ」と呼んでいいでしょう。
これは、キラキラネームだけの問題ではなく、ごく普通の名前であっても発生しうる問題であることにお気づきでしょうか。
たとえば、男の子に強さを期待して「剛」という名前をつけたが、本人は成長してそんなものより愛や優しさを大事にする価値観の持ち主であったとか、女の子に「麗華」と名づけたが本人は地味なタイプで名前に気後れするといった、「親の期待と子の実態が一致しない」例は多くあります。(これはLGBTQ+の問題とも関連しますが、それはまた別稿にて論じます。)
しかし、名は体を表してしまうのです。名前はアイデンティティーの一部であるにも関わらず、親が名づけた名前によって自分が規定されてしまいます。このように自己決定権が損なわれることによる苦痛も生じることがあります。
「それくらい」我慢しろ、というわけにはいきません。何しろ、名前は一生ついて回るもので、本人を識別するための最大の記号です。それなのに、意に沿わない名前で生きていくことを、他のだれが強要できるというのでしょうか。名前のミスマッチに苦しんでいる人に「それくらい」というのは、単なる暴力であり、ハラスメントです。
もちろん、あまりにも奇異な名前の場合、裁判所で改名が認められる事例はあります。しかし、社会的に不利益と裁判所で認められなければ、たとえいくら違和感を覚えていても、正式に改名することはできません。それは、果たして正常な状態と言えるでしょうか。
生まれたときには確かに、自己命名の能力はありません。それを親が代行することにも異議はありません。そして、表現の自由もありますから、親が子によかれと思った名をつけることは――たとえそれがキラキラネームであるとしても悪意や誤解がない限り――制限すべきではないという意見にも一理あります。
しかし、付けられた本人はどうなのでしょうか。あるいは、キラキラネームというわけではないが、親のつけた名前を受け入れたくない人はどうなのでしょうか。DVに悩んだ子供であっても親の命名をありがたく受け入れなければならないという道理はあるのでしょうか。
子供の名付けが親の自己顕示欲の道具として使われる場合も存在しうることは黙認されているにもかかわらず、子供自身には自己決定権がないというのは、決してバランスが取れていないのではないでしょうか。
このように考えてみると、自分で自分の名前を「選ぶ」権利を、一定の年齢以上で認めることが必要であるということは明白です。もちろん、親のつけてくれた名前を――キラキラネームか否かにかかわらず――そのまま使うという選択ももちろん受け入れますし、それが圧倒的多数になるかもしれません。しかし、親の付けた名前を選ばないという選択も認められてはじめて、(親の名を選んだ人も含めて)自己決定権が保障されたといえるのではないでしょうか。
一度付けられた名前は(ほとんど)変更できない。ほかならない自分の名前なのに、自分で選ぶことができない。自分が違和感を覚えていても、一般的な名前なら変更できない――そんな《謎ルール》が存在する限り、キラキラネームに関する漢字の読み方の指針をどうこうするといった小手先の対策では何も解決しません。親に付けられた名前の是非は、名付けられた子供(=成長後も含めれば現代人のすべて)自身が自分で選ぶものです。
「変えられないものだから仕方ない」「親が願いを込めてくれた名前だから、それに違和感を覚えるのはよくないことだ」といった考え方は、自己決定権という考え方には合わないものです。
キラキラネーム、ひいては「親の命名と、命名された子供のミスマッチ」を抜本的に解決するためには、「自分の名前を自分で選ぶ権利」を導入することが必要不可欠なのです。