野呂佳代さんの「結婚での改姓」への疑問は真っ当な感覚
元AKB48の野呂佳代さんが、自己命名権について言及されました。もちろん「自己命名権」というワードは使われていませんが、結婚で名字を変えることについての疑問を率直に表現されたようです。
結婚で「そもそも名字が変わる意味もよく分からない」という発言が中心となっています。「そもそも」という言葉を使っており、根本的な意義を問いかける「そもそも論」となっていますが、それに対して大吉さんも「あらためて」と応えています。つまり、これは「当たり前だと思っていたことをもう一度、本当にそうなのかと考え直してみたら、そうじゃなくてもいいんじゃないかという考えに至った」という、クリティカルな思考が働いたことを示しています。
そして、このトークでは、前後で「縛られるのが好きじゃない」「選択がなくなっていくことも寂しく思う」という内容が語られていました。つまり、「名字が変わる」ということと「縛られる」「選択がない」ということが一続きの内容として認識されています。さらに「(夫の家の墓ではなく)おばあちゃんと一緒にお墓に入りたい」とも述べられていることは、名字を変えることと「相手の家に入る」という旧態依然とした結婚観への違和感が伴っていると言えます。
このように、野呂さんの発言は、「名字が変わる」ということが「縛られる」「選択がない」「相手の家への帰属を強制される」ということと密接につながっていることを浮き彫りにしたのです。
このような野呂さんの疑問に対して、「わがまま」や「夫が名字を変えることは不可能ではない」、さらには「伝統的な社会の形を変えてしまう」といった批判はどれもインパクトを持ちません。
もともと同姓の人と結婚しない限り、結婚での改姓は必ずどちらかの人に改姓を強要します。そして、現在の日本では男の側が改姓するのは5%にとどまり、圧倒的に女性に負担を強いることになっているため、一見するとフェミニズムの問題であるかのように受け取られていますが、実際にはそれ以上に「自己決定権」の問題です。改姓する側に「負担を強いる」制度であることはだれも否定しないでしょう。とすれば、たとえ改姓するのが男女ほぼ同数になったとしても、改姓を強要される人が必ず発生すること自体がおかしいということは明確です。
わたしたちは、結婚による改姓について、「家に縛られる」感覚や「選択肢を奪われた」という感覚を持っています。それは自己決定権が奪われた状態だということです。
わたしたちは一刻も早く、自己命名権、自分の名前を自分で選ぶ権利を取り戻さなければなりません。