優しいと評されても

僕は自分に対しても他人に対しても甘い。正確に言うと、自分に甘くするために他人に甘くする。

こう言うととてもおかしな風に聞こえるかもしれないが、自分は利他主義的な行動を自分のために実行することが多い。

それはつまり、何かに困っている「誰か」に対して、何かに困っている「自分」を投影した上で甘くすることにより、間接的に自分を甘やかしているのだ。

なぜそんな回りくどい方法を取っているのかというと、直接的に自分を甘やかすのは常に罪悪感を伴うからである。

これは聞いていて気持ちよくない自分語りになってしまうが(聞いていて気持ちの良い自負があるかと言われたらまた微妙な話だがそれは置いておいてほしい)、小さいときから驕ることと怒ることは最もいけないことである、常に謙虚かつ人に優しくあれと育てられてきた。

そしてそれは人間関係を築き、維持していく上で確かに重要な要素の一つである。それをこなすだけの下地があれば。

意識も低く、能力もなく、努力もない。そうして日々を過ごし、失敗と叱責を受け続けた結果出来上がったのは、卑屈で怠惰な人間だった。

驕ることはない、人に驕ることのできる点などなかったからだ。そして怒ることもない、失敗と叱責ばかりの自分が怒る立場に立つなどそれこそ驕りでしかないと考えたからだ。

わずかに自分を肯定する材料もまた、「驕るな」という言葉によって失われてしまった。何かを達成した喜びとはすなわち驕りであると考えたからだ。

そうして、自分の中での自己評価は救う価値のないどうしようもない人間へと成り果てた。

親の考えは間違っていなかっただろう。そこに足りなかったのは他ならない自分自身の意識、努力、能力の欠如だ。

長くなってしまったが話を戻そう。この自分語りで言いたかったのは、要するに「努力が足りなかった結果、親の教育が裏目に出、自分のことを救う価値のないダメ人間に成り果てたと評価した」ということだ。

しかし、理性と感情を切り離すことなどできないから、そんな現状から助かりたい、そんな現状を慰めたいと思うのもまた自然なことである。

そして最終的に行うようになったのが他者への自己投影による間接的な自己への救済である。この行動は、「自分は救う価値がない」という理性と「助けてほしい」という感情を最大限両立に近しい状態で行うものである。

だがこれは他人を巻き込むという点では非常に悪どいものと言える。もちろん、誰かに対しての所謂甘やかしが特定の誰かにとって救いになることもあるだろう。

しかし、その行動の意図は結局のところ自分が甘い蜜を吸いたいがためである(もちろん、相手がそれにより崩れてしまえばより強い罪悪感に襲われてしまうため限度はあるが)。

自分を時折優しいと評価してくれる人がいる。それはとてつもなくありがたいことだ。

しかし、自分から出た言葉や行動をを優しいと評価されるのは非常に違和感がある。これは他者を慮る人間の優しさではなく。自分が都合良く救われるためのエゴからの行動なのだ。

更に言えば、人に優しくすることで、こんな自分が人に対して優位に立てるという汚らしい感情も含まれていることだろう。

正直、優しいと評価されることで心のうちに罪悪感を溜めてしまい、それがストレスになってしまっている部分があった。

だから、こんな自分を優しいと評価してくれる人の言葉を否定するようなノートを書き上げてしまった。

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セルフマン
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