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【かごしま選手名鑑】#002 公益社団法人日本オストミー協会鹿児島県支部長 石澤隆之さん

オストミー(Ostomy):ストーマを造設する手術のこと。転じて造設されたストーマ(人工肛門/人工膀胱)を意味することがある。
公益財団法人 日本オストミー協会HPより

50歳で難病の潰瘍性大腸炎を発症するも完治

病気が分かったきっかけは排便時の出血。最初は痔だと思っていたんだよ。とにかく医者嫌いでね。病院でステロイドの薬をもらって、2ヶ月くらい飲んだら出血がピタッと止まってね。それで自己判断で薬を止めたの。

そこから1〜2ヶ月したらまた大量に出血があってね。だけど、勝手に薬をやめてたから なんとなく引け目があって前の医者のところにはいけず、別な病院にかかった。


その病院でね、先生に「野生の動物がいますよね。あいつらも病気をするはずだけど、自分で治してるはず。俺も動物です。3ヶ月という期限を作って治したいと思っています」と言ったら笑われてね。

「石澤さん、どうして難病って言うかわかるか?治らないから難病って言うんだよ」って。「それでも3ヶ月で治すから、先生もそのつもりで向き合ってよ」って言い返した。看護師も笑ってた。

結果3ヶ月経っても出血は止まらずにね。でも6ヶ月経った時に大腸検査を受けたら(腫瘍の)痕跡まで消えてるって。医者は何も言わずに必死に検査してて、医者も驚いてたけど「治ってる」って言われたとき、俺は(病気に)勝った!と思ったね。

真面目に一生懸命やってきた俺がなぜこんな目に?

60歳で病気が再発。でも、その時も俺は「治せる」と思ってた。

それで病院にも行かずにいたら、みるみるうちに痩せてきてね。正月明けに病院に行ったら「入院してくれ」と言われたんだけど、会社も経営して60人以上も社員がいたしね。「(入院はできないけど)ちゃんと通院します」と言ったの。それから10日くらいしてからもう一度病院に行ったら医者に「(入院しないなら)もう責任は持てない」と言われて。それで仕事を整理して、その月末に入院した。

そこからどんどん悪くなっていってね。俺はその頃もう消化能力がなくなってて、食事もさせてもらえず、ずっと点滴でさ。大部屋だったから、ご飯の時間はきつかったよね。「くそ〜!俺は食べられないのに」って(笑)

6時間おきにモルヒネを打つほどの激痛が走るようになって緊急手術。


叔父が人工肛門だったのを見てたから、俺は絶対に(人工肛門は)いやだって言ってたの。結局、3時間で終わるって言われてた緊急手術は、3時間後には「救命手術」になってた。つまり命だけは助けますってこと。8時間の手術で大腸と直腸を全部摘出してね。2日後に集中治療室で目を開けた時には身体中管だらけ、ここ(お腹)には袋が付いてて。涙が止まらなかったよね。

なぜ俺がこんな体に?ズルもせずにこんなに一生懸命やってきたのにって。サボってるやつはいっぱいいるじゃないかと、人工肛門になったこと自体に反発する気持ちがあったね。

そんな大手術してるのにさ、医者は説明もせずにただ「歩け」って言うの。それに腹が立ったけど、看護師に聞いたら「動かないと腸が癒着するからだよ」って教えてくれてね。それで悔しかったから、医者に見られないように夜中に起きて歩いてた。結局宿直の看護師たちが報告してるから医者にはバレてるんだけどさ(笑)。病院の窓からお好み焼き屋のネオンが見えるんだけど「よし、退院したらあそこに食べに行くぞ」ってね。(笑)

入院中ある時、お尻が痛くて。主治医に相談するんだけど、全然取り合ってもらえなくて、頭ごなしに「君はもう悪いところはないよ」って。2回相談したけどダメで、それで他の医者に相談したらすぐに切開をしてウミを出してくれて楽になったの。

医者って、技術だけじゃなくて患者の目線まで下がって話を聞けるかってことも同じくらい大切だと思ってる。でも自分を振り返るとね、会社を経営してた時に自分はそれができてたかなって。何人か辞めさせた社員がいたけど、それは俺がちゃんと話を聞いてあげなかったせいで、本来持ってる能力を伸ばせなかっただけじゃないかって。

だから、会社に戻った時にみんなに「すまんかった」って謝った。みんなキョトンとしてたけど(笑)。僕はあのドクターと同じことをやっていたかもって。この体になって良かったという意味じゃないけど、この病気をしてよかったと思ったことの一つはその学びがあったということだよね。

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買い物に行くたび、店中に響くくらいの声で店員を怒鳴りつけた

その頃もう家内は他界してて一人暮らしだったし、それまでは布団で生活してたから、家も病室と同じようにベットが置けるように改装して。
ある日電気屋に行って、台付のテレビセットを買うことにしたの。そしたら台の方が店に在庫が無くて、テレビは無料で配達するけど台は今から取り寄せるから後日届けるのに送料がかかるって言われてね。なんでもないことなのに「おまえたちがちゃんと在庫を置いてないからじゃないか!」ってカチンときてね。

他の日は、快気祝いを買いに百貨店に行った。品がいいのがあってね。店員が1割値引くって言うし、じゃぁこれをくださいって言ったんだけど、レジでそんなこと言ってないと言うわけ。結局1割引くって言ってたのは別な商品だったんだけど、その時もまた腹が立って、店中に響くような声で怒鳴ったの。他のお客さんとか店員がびっくりするくらいの声で

それまで、買い物先でそんなふうにカッとなって声を荒げるなんてことはなかったんだけど、障がいというか、こういう体になったということを受け入れられてないというか。自分の中で不満が残ってるの。それで八つ当たりをするんだよね。

それに気づいたのはさ、ある時に役所の福祉課に装具の申請に行った時、職員に向かって怒鳴ってる奴がいたの。「俺は体がきついんだ!お前がやれよ!」って。

それを見てね、あぁ俺と一緒だと。俺はこんなふうに叫んでるんだなって。人の姿を見て初めて気づくんだよね。自分しか見てない時は気づかないの。それが分かってもまだ、自分の今の状態に対しての怒りは消えなかった

そんな時、自分と同じ病気を経験した30歳の若者に会ってね。彼は5年前に発症して僕と同じ状態になってて。当時俺はまだ人工肛門に慣れてないから時々(便が)漏れたりしてたの。そんな話をしたら彼が「石澤さんは人工肛門の袋を貼ってすぐに動いてるんじゃない?」って言うんだよ。「貼った後、体に馴染むまで1時間くらい押さえておけば漏れない」って。でもそんなこと医者も看護師も教えてくれなかった。患者じゃないと分からないことがあるからね、同じように悩んでる人たちと繋がって話をしたいと思ってる

自分の病気を受け入れることができたのは

その彼は僕よりずっと年下だけど、病気で言うと僕より大先輩でしょ。彼と話すことで俺は病気を受け入れることができた。

なぜ受け入れられたかわかる?

寿命が90年だとするでしょ?俺は当時60だったから、あと30年頑張ればいい。でも彼はまだ30歳。あと60年頑張らないといけない。そう考えると、その差分の30年、俺は自由に生きてきた。言葉が悪いけどね、自分より悪い境遇の人がいるってことに救われる自分がいた。彼に悪いけどね、自分よりもさらに悪い人の話を聞いて自分は幸せだと。でもそういうことで自分を受け入れられて、そこで初めて素直になれた。

そしたら人と話ができるようになってね。この体で健常者以上のことをしたいって、そんな目標ができた。そこからオストミーの会にも入ったりもして。体は障がいがあるけどね、心までは障がいじゃないと今は言える

障がい者と健常者の垣根を無くしたい

僕は障がい者に出会った時、ポンと「どうして車椅子になったの?」とか聞くことがあるの。そしたら ある健常者の人が「石澤さん、なんでそんな気の毒なことを聞くの?」って。

問題はそこにあるなと思ってて、気の毒だと思うって訊こうとしないのは、もう差別じゃないかと僕は思ってて。でもちゃんと質問してみるとね、障がい者は結構しゃべってくれる。私のことを知ってと言わんばかりに。案外、障がい者の側は垣根を持っていないような気がするんだよね。お互いのことをよく知るとさ、垣根が消えていくんだよ。

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僕はずっと仕事人間で趣味と言えるものがなかったんだけど、あるときリビング新聞でスポーツ吹き矢というものを知って。

バトミンとか卓球とかあるけどさ、それは相手に勝てるかってスポーツでしょ?吹き矢は、自分との戦い。猫背も治って姿勢も良くなるし、背筋を大きくする。呼吸器が強くなるから誤嚥性肺炎も防げると思ってる。逆流性食道炎の薬ももう飲まなくなった。

僕たちは、体は障がいがあっても 心は障がいじゃない。健常者と一緒だって。心は同じ「人」でしょ。そこを受け入れられないのは実は健常者の側かもしれない

だから吹き矢にも、障がい者だけじゃなくて、あえて健常者もどんどん入れるようにしてる。日常的に会っていると境目がなくなっていくから。健常者がそこを受け入れられるようになると、もっと柔和な社会になると思う。そういう社会を作っていくのも、経営者の一つの役割だと思ってるよ。

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吹き矢を始めた翌年にはハーレーも買ってツーリングも始めた(笑)。

最初はバイクを買うつもりなんてなかったんだよ。当時の社員が「買いたいから一緒に店に行ってくれ」って言うから付き合っただけで、俺 二輪免許持ってないし関係ないと思ってた。

金額だって安いもんじゃないし、もともと買うつもりもなかったのに、3輪だったら普通免許で乗れますよって店員が言うんだよね。でも、一緒に行ったそいつがなかなか決めないし「何でもいいから、あれこれ選んで迷うんじゃなくて、さっさと決めて行動しろ」って言いたかったんだよね。結局はそいつもバイクを買ってツーリングを始めた。

最初は運転も上手じゃなかったから一人でコソコソ乗ってたんだけど、バイク屋さんが何度もツーリングに誘ってくれてね。参加してみたら仲間と乗ると楽しいということが分かった

最初は仲間たちに人工肛門のことを話すと迷惑をかけると思ってね、話してなかったの。とは言っても、やはり人よりもトイレに時間がかかったりするからリーダーにだけは説明してた。でも、そのうち少しずつみんなにも知られていって。そしたら「お前、よくそれで頑張ってるな」とか「大丈夫か?」とか「俺の知り合いもそうだぞ」とかね。

それとね、オストメイトになってもハーレーに乗って走り回ってるってことで、同じ境遇の人を勇気づけられるんじゃないかなって

自分の寿命を決めている

なぜ年寄りが、金を使わずに溜め込んでるかわかる?

寿命が決まってないからだよ。みんな死ぬその時まで蓄えを残しておきたいの。でも寿命を決めると、「あと何年」って意識して、1年1年が大切になってくる。計画だって立てやすい。そうすると1ヶ月っていうのが本当に大切になってくる

だから俺は60歳でこの病気になったとき、自分の寿命を80って決めてさ。それなのに医者が診断でいろいろ調べて「石澤さんは100まで生きる」って言うもんだから、今 焦ってるんだよ(笑)。今74だから、100まで生きたらあと26年もある。俺、80で金を使い切るつもりで生きてきたのに困ったよ(笑)

もっとたくさんの人と繋がりたいし、繋げたい

行政って縦割りでしょ。窓口に行くと「これ以上仕事を増やさないでくれ」って空気があるよね。でも、みんなで繋がれば、いろんな知識と経験があるから、もっといろんなことが早く進むと思うんだよ。「繋がれば、きっとあなた(役場職員)の仕事ももっと楽になる」って思ってる。だから離島も含めて九州全体で繋がりを作りたいし、zoomを使ったりして都会とも繋がりたい

今いくつか他県の団体と繋がってるけど、都会はやはり進んでるよね。オストメイトの人数自体も多いし、PDCAを早く回してるように感じる。

鹿児島はいまだに過去にすがってるようなところがあるけど、このコロナのおかげで「もう過去には戻らない」ってみんな気づいてきてるし、今いろんなことで特に福祉関係は女性のトップが増えてきてる。だから今が新しいことをはじめていくチャンスだと思う。「前例がない」じゃなくて、俺も一緒になってやっていくから、一緒に前例を作っていこうよって。

障がいのことはさ、やはり経験した人が話すほうが心に響くんだよ。経験してないとただ書物を読んでるだけのようなもんだから。


行政も僕らも「人」だからね。心が動くと違ってくると思う。いろんな法律とかあってなかなか難しいと思うけど、僕らをもっと利用してくれたらいいと思ってる。そんな思いで、鹿児島県中の役場を一件一件訪問してる

鹿児島にも本当にたくさんこの病気で苦しんでる人がいるけど、会に入ってるのはほんの一握り。こんな会に入らなくても大丈夫な人たちもいるだろうけど、一人で悩んでる人も多いと思う。時々ね、出会った人たちが俺に電話をかけてきて「死にたい」って言うんだよね。そんな時はすぐに会いにいくの。でも難しいね。

特に、今悩んでる若い人たちと繋がりたい。こういう会はさ、年寄りが多いんだよ。でも、年寄りは自分の自慢話ばかりするし、今と昔とでは手術の方法も違う。だから、若い人たちのための会を作りたいと思ってる。


夢がない人は若者でも老人だよ。年寄りでも夢がある人は若い

笑顔って一番大事じゃないかな。だから僕が会ういろんな人たちに、小さくてもいいから何か目標を持ってもらいたい。弱っている人たちと会って、何でもいいの。とにかく笑顔を引き出していくこと自体が、僕の元気の源のような気がしてる。それが僕にとっての目標だけど、やはり若い時のようには体力が続かなくなってきてるから、あとは3年以内に(今の自分の役割を)誰かに引き継ぎたいね。

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