スッタニパータのメモ①[蛇の章]


かの中村元先生が訳してくれてはいるものの、私のような浅学非才の身では読み返すだけでも無限に時間がかかるので、わかりやすく……というよりは、自分が理解しやすいように、ある程度を割愛/要約して書き残しておく。
そのため、私自身の解釈が含まれることにご留意いただきたい。

随時加筆予定

仏典を読解する上で重要なことは仏典は対機説法の形式で記されていることを常に念頭に置くこと。在家信者に対しては、カルマの思想や世俗的な道徳などの在家のための教えを、出家者に対しては解脱道を説き、バラモン教徒に対しては仏教に導き入れるような教えを説く。それを念頭に置いた上で読み解いていきたい。

出典:ブッダのことば: スッタニパータ (岩波文庫)
   中村元 - スッタニパータの解説(https://youtu.be/_RTb1sC7Yg0?si=oW6I3emDQS-OsUYB)

蛇の章

この章では現地において馴染み深い生物である蛇を例えに、解脱へ至る道すじを説いている。

「蛇の毒が身体の隅々に拡がるのを薬で制するように
怒り・愛欲・妄執・驕慢を除き去り
無我を知り、無常を知り
中道に生き、妄想せず
¹貪り・愛欲・憎悪・迷妄から離れる

それらを成し遂げた修行者は、この世とかの世をともに捨て去る。
これは蛇が脱皮して旧い皮を捨て去るようなものだ。」

・「この世とかの世」とは現世への執着と死後の望みという解釈が妥当か。
1,貪・瞋・癡(とん、しん、ち)の三毒

貪欲・怒り・心の沈むこと・心のソワソワすること・疑いを捨て去り
²欲情・嫌悪・迷妄・高慢・悪い見解を抜き去る

それらを成し遂げた修行者は、この世とかの世をともに捨て去る。
これは蛇が脱皮して旧い皮を捨て去るようなものだ。」

2,ものを欲しがること

ダニヤ

この章では世俗に生きる者のシンボルとして描かれるダニヤと、ブッダとを対比することで思想を表現している。

ダニヤは定住する家と妻と牛を持ち、そこには雨を耐えるための屋根があり、火も炊かれている。牛も雨が降ろうと耐えられるだろう。そういった準備が自分にはあると述べている。
対してブッダは、一夜のみの家で欲望の火は消され、既に心は洪水(欲)を自分の教えによって克服しており、準備などするべくもないと述べた。
世俗に生きる者は多くのものに縛られているが、真実はそれらは無意味な執著であるということを示したのだ。

「子のある者は子について憂い、また牛のある者は牛について憂う。実に人間の憂いは執著するもとのものである。執著するもとのもののない人は、憂うることがない。」

犀の角

この章では自ら考え、独りで正しく歩むことを犀の角に例えている。

人と会い、聞き、触れ、話しそれを楽しむことは、後の苦しみにつながるので独りで歩もう。
現時点で自分よりも優れるか等しいくらいの友がいるのであれば、それにも良い側面もあるから親しくしよう。
そんな友がいないなら、それはそれで無駄なお喋りから苦しみにつながることが回避できているのだから、そのまま独りで歩もう。
欲を捨て貪らず、偽らず、渇望せず、人に対して良いように見せかけず
心の濁りと迷妄を除き去り
経験した楽しみと苦しみとを擲ち、快さと憂いとを擲って
¹慈しみと平静とあわれみと解脱と喜びとを修め
犀の角のようにただ独り歩め。」


1,四無量心と後に言われる。
 慈しみ:生けるもの全てが安楽でいられるようにと思うこと。
 あわれみ:生けるもの全てが苦しみから逃れられるようにと思うこと。
 喜び:生けるものの喜びを喜ぶこと。
 平静:心が平等で苦楽に傾かず、なににも執著しないこと。

田を耕すバーラドヴァージャ

この章では、人々が田を耕すことで生活を豊かにするように、釈尊が修行することで自らの心を豊かなものにしたということ、そして仏教の修行者は労働によって物を得ることをしてはないないと示している。

「私にとっては、信仰が種子である。苦行が雨である。智慧が我が軛と鋤である。恥じることが鋤棒である。心が縛る縄である。気を落ち着けることが我が鋤先と突棒である。
中略
努力が我が軛をかけた牛であり、安穏の境地へ運んでくれる。退くことなく進み、そこへ至ったならば憂うことはない。
この耕作を行ったならば、あらゆる苦悩から解き放たれる。」

チュンダ

この章では、

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