人は生まれる場所を選べない。
途上国で生活・仕事をしていると、しょっちゅう「人生というのは不公平だ」と思います。その不公平を是正するために社会開発分野で働いている私が言うべきことではないのですが、まあ事実だから仕方ない。
先月、パキスタンの北部にある小さな町の、とある保健施設に行ってきました。日本で言うところの県立病院、ある程度の手術や分娩まで行う地域中核病院ですが、上の写真が分娩室。
カビだらけの壁
停電中の部屋
分娩台の周りには目隠し用のついたてだけ
心拍モニターなんてあるわけない。
医者はおらず、おばあちゃん医療技師(医者と看護師の間ぐらいの医療行為ができる)と助手の女性の2人が月に20人ぐらいの出産を支えています。視察を終えた私たちが帰る間際にも、破水した妊婦さんがちょうど義母たちに付き添われて分娩のために入ってきていました。イスラム社会ですから、出産の現場に男の姿は皆無。私がもしここで出産しなければならないとなったら、多分、気を失う方が楽だと思うのでしょう。でなければ神に祈るしかない。インシャラー。
パキスタンでは都市部の人たちを除いて、大半の女性が自宅で、医療技術や消毒された器具なしに家族の中の女性たちに助けられて家庭内出産をしています。家の中から基本外にでることを許されない女性たちは、産前検診も受けていなければ、その時に接種されるべき破傷風の注射も打っておらず、きちんと消毒されていない剃刀やはさみでヘソの緒を切っているのですから、出産で命を落とすことだってまれではありません。実際、10万件の(生存した)出産あたり、亡くなるお母さんは276人。362人に一人の割合で妊婦さんは赤ちゃんを産んだ直後に死んでしまうのです。母子ともに死亡の例も少なくないので、実際にはもっと頻繁に出産がきっかけで亡くなる女性は多いです。
子どもだって同じで、1歳までに1000人中66人、つまり15人に一人は亡くなっていることになります。生まれて、生き残るということだけでも大変なことで、パキスタンの隣国インドに生まれていたら、この確率は30人に一人。日本だったら500人に一人。生まれる場所を選べない赤ちゃんたちは、このように場所によって異なる生存確率を、それも運命と受け入れるしかないのでしょうか。死だけは平等に誰にでも起こる、という言い方もありますが、そこに至るまでの年数の違いはやっぱりとても不平等で、不公平だと思うのです。
さて、日本という国で、日本がまだ「先進国」であった時期に生まれた私たちは幸福だったのでしょうか。今から「先進国落ち」していくと思われる日本で生を受ける近い将来の子どもたちは幸福なのでしょうか。簡単に答えが出ない問いは、今日も開発ワーカーの私の頭の中でグルグル回っているだけです。