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若き日本酒蔵の闘い――福島の希望を背負い、東日本大震災から誕生した美酒

この文章は宣伝会議「編集・ライター養成講座47期(2023-2024)」の卒業制作を一部変更・修正したものです。※2023年12月に取材をおこなっています。

日本酒王国として名高い、福島県。
どの酒を飲んでもみずみずしく綺麗で、料理と一緒でも単体でも心を潤してくれる。人気銘柄に続き、福島酒の地位を揺るぎないものにしたのは、2011年に発生した東日本大震災をきっかけに酒づくりをはじめた若き蔵元たちだった。彼らは26歳で酒蔵の未来や福島の復興など背負い、闘い抜き、圧倒的な功績を残してきた。同い年の筆者は、彼らの活躍を間近に見てきた。
11年経った今だから聞ける当時の現場の様子と、これから目指す場所とは?等身大の彼らの姿に迫った。

苦境を乗り越え、今や福島の酒は、その味わいで全国を驚かせている。最も信頼性のある「全国新酒鑑評会」において、福島県の酒蔵は2013年から9年にわたり金賞受賞数日本一を達成し続けてきたのだ。入手困難ともいわれるスター銘柄を筆頭に、若手蔵元の目覚ましい活躍が、品質の高さを世に知らしめている。

(左)廣戸川・松崎酒造 (右)天明・曙酒造

その中心には特に注目すべき二つの酒蔵、松崎酒造と曙酒造がある。ともに1984年度生まれ、現在39歳の跡取り息子が伝統と革新を背負い、新たな時代の酒を醸している。

新酒鑑評会での金賞受賞率が高い東北6県の酒蔵が競う「東北清酒鑑評会」2023年 純米酒部門において、松崎酒造が最優秀賞、曙酒造が二位にあたる評価員特別賞を受賞する快挙を成し遂げた。

しかし彼らの背景には、東日本大震災の影響という過酷な試練があった。26歳という若さで酒蔵の未来を背負うこととなった。ただでさえ「福島の酒なら『飛露喜』『冩楽』があれば十分」と言われる厳しい市場。世の中があっと驚くような、おいしい酒をつくらなければスタートラインにも立てない。紆余曲折の末、彼らは覚悟を決めた。 

やがて若手日本酒蔵の成長と活躍は、誇りを失いかけていた福島県民の希望にもなった。

松崎酒造 松崎裕行の闘い

東日本大震災が生んだ新時代の杜氏

松崎祐行(まつざき・ひろゆき)
「廣戸川」醸造元 松崎酒造 専務取締役兼杜氏(六代目)
1984 年 12 月生まれ。帝京大学理工学部卒業後、23歳で松崎酒造店に入社。柔らかい福島訛りでのんびりと語り、いつでも飄々としている。
【福島県岩瀬郡天栄村】

爽やかな果実のような香りに、米の旨味と甘みと酸味のバランスが良いすっきりとした味わい。単体で飲んでもジューシーで美味しいのに、食事の旨味と寄り添ってくれるという万能な酒だ。居酒屋に「廣戸川」があれば、”今日はずっとこれでいいや”、という安心感がある。

「まさか自分が杜氏になるとは思っていなかった」。

松崎酒造の六代目・松崎裕行氏が話してくれた。

出典:天栄村ホームページ

蔵がある人口5,000人ほどの天栄村は、福島県南部の山間に位置する。松崎氏が、実家の松崎酒造に入社したのは2008年のことだった。当時「廣戸川」はほとんどが安価な普通酒で、天栄村と須賀川市だけで流通していた。長年蔵を支えてきた南部(岩手)杜氏(とうじ)の板垣弘さんのもと、酒造りの手伝いをしながら、“清酒アカデミー”に通い醸造を学んだ。 

かつての酒蔵は経営者である「蔵元」がいて、酒づくりは製造責任者である「杜氏」を頂点とした技術者集団「蔵人」に一任するのが通例だった。松崎酒造も同様で、松崎氏は蔵元になるべく実家に戻ったのだ。

卒業を目前にした2011年3月11日、東日本大震災が発生して震度6強を観測。仕込み蔵や母屋など建物に損害を受けた。それだけでなく、板垣杜氏が脳梗塞で倒れ引退を余儀なくされた。両親は岩手にある「南部杜氏協会」から新しい杜氏を紹介してもらおうとしていた。

松崎酒造 離れの外観(震災後に復旧工事済み)

「自分に杜氏を任せてくれないか」。

原材料費と杜氏への報酬をあわせると、売上とほぼ同額になっている厳しい経営状況を松崎氏は知っていた。県内で「飛露喜」をつくる廣木酒造本店の廣木健司氏や山形県で「十四代」をつくる高木酒造の高木顕統(あきつな)氏を筆頭に、製造・販売・経営のすべてを担う「蔵元杜氏(オーナー杜氏)」が全国で活躍していることも知っていた。清酒アカデミーの同期たちは自身の蔵で酒づくりをしている。

松崎氏は「同期と未来を語っていたからなのか、前向きだった」と言い、「満足のいく酒をつくり、飲む人に美味しいと言ってもらいたい」と、両親を説得した。「やってみろ」とは言われなかったものの、両親は南部杜氏協会に電話をかけるのをやめ、黙認した。

次の酒造期が始まるまでのタイムリミットは半年。松崎氏の闘いが始まった。

金賞を目指して

原料米を甑(こしき)で蒸す様子。若い蔵人が活 躍中。蔵人だけでなく、彼らもひとりずつ清酒ア カデミーに通い、学んでいる。

「”廣戸川が変わった”と知ってもらうには、金賞をとるのが一番分かりやすい。初年度から狙いにいった」

目標を“新酒鑑評会で金賞受賞”と定め、県の指導技術者である鈴木賢二先生に「もう一年だけ学ばせてほしい」と頼み、清酒アカデミーに特例で再入学した。鈴木先生が作成する「福島流吟醸酒製造マニュアル」を忠実に再現し、地域の人や家族の手も借りて250石をほぼ一人で、できるだけ丁寧に仕込んだ。繊細な出品用大吟醸の酒づくりを身につけることで、他の酒づくりにも生かすことができる。

酒造業界では、どんなベテラン杜氏でも「毎年が一年生」と言う。理解したつもりでも、年ごとに米の出来が違う。酵母菌というままならない生き物を見守り、健全に活動するための環境作りをすることしか人間にはできない。経験が浅かった松崎氏は、すべての酒の原料を県産の酒米「夢の香(かおり)」だけに絞り、経験値を積むことにした。

出品酒をつくる際には「金賞をとりやすい」といわれる酒米・山田錦を使用することが多いが、松崎氏はあえて福島県産米を選択した。

「震災直後に東京でおこなわれた福島酒の復興イベントでは、無料試飲なのに、放射能汚染を気にして誰も受け取ってくれない。罵声こそなかったけど、こんなに嫌われているのか、とショックを受けました…」と、松崎氏。自社のためにも、福島のためにも、福島県産米を使って、みんなを唸らせるような真に旨い「廣戸川」をつくることが必須だった。

若くして酒蔵の運命を背負った松崎氏は、追い詰められ「不安で夜中何度も麹を見に行く生活。半年で体重が6kg落ちた」。寝不足がたたり、作業用の沸騰した湯をうっかり長靴の中にこぼして大やけどを負ったこともある。「発酵が進む酒を放って安静にしているわけにもいかなくて、翌日も足を引きずりながら酒づくりした」と、満身創痍の日々を振り返る。

居酒屋で飲んでホッとする酒であり続けたい

2019 年新設した瓶詰め倉庫。「廣戸川」と書かれ た看板をライトアップしたのは、村の人たちが 通るたびに「天栄村に帰ってきた」と心落ち着け るシンボルになれるように、と願いを込めた。

その甲斐あって、見事「全国新酒鑑評会」で金賞を受賞。「福島県新酒鑑評会」吟醸部門、純米部門でも金賞を受賞した。杜氏として4年目を迎えた、「SAKE COMPETITION2014」フリースタイル部門で「廣戸川 大吟醸酒」が一位を獲得した。同コンペは市販酒の品質を競う国内最大の大会で、「十四代」が唯一出品する、というほどレベルが高いことでも有名だ。無名蔵の登場に、表彰式会場は一時騒然となった。

最近では、2019年と2022年の「福島県秋季鑑評会」で県知事賞を受賞。2023年の「東北清酒鑑評会」では、純米酒部門で最優秀賞を受賞した。「全国新酒鑑評会」は初年度のみならず2022年までの10年間、金賞をとり続けた。2023年「G7広島サミット」の社交夕食会で、「廣戸川 特別純米酒」が振る舞われるなど、いまや名実ともに酒造業界をけん引する存在となった。

日本酒「廣戸川」は腕試しとして鑑評会の入賞を目指しながら、基本的には「仕事終わりに居酒屋で飲んでホッとする酒」をテーマにしている。居酒屋で飲みきるまでの期間を想定して、開栓してから4日目に味わいのピークを設定しているのだ。

現在松崎氏は、福島県酒造組合の技術委員として福島県鑑評会の運営と審査だけでなく、かつてお世話になった清酒アカデミーで生徒の指導にあたっている。

「『飛露喜』の廣木さん、『冩楽』の宮森さん、『ロ万』の星さんと近しい距離でよく(酒を一緒に)飲ませてもらって、泉屋酒店の(佐藤)広隆さんからもたくさんのことを学ばせてもらった。アカデミーの同期にも刺激を受けてきた。うちの蔵が福島県になければ、ここまで成長できたかはわからない」。

曙酒造 鈴木孝市の闘い

鈴木孝市(すずき・こういち)
日本酒「天明」「一生青春」醸造元・曙酒造 代表取締役(六代目蔵元)
1984年5月生まれ。東京農業大学を中退後、一般企業に就職。母の病をきっかけに、故郷に帰り入社。猪突猛進で情熱的。悔しさをバネに頑張るタイプ。
【福島県河沼郡会津坂下町】

新たなる酒づくりへの挑戦と社内からの抵抗

曙酒造の外観

曙酒造は1904(明治37)年創業で、来年120周年を迎える酒蔵だ。蔵がある会津坂下町は、会津盆地の西部に位置する自然豊かな場所。農業が盛んで、朝晩の寒暖差が大きいため良質な米が育つ。町で発見された「瑞穂黄金」という品種は主に日本酒用に栽培され、曙酒造でも多く使用している、と代表取締役社長の鈴木孝市氏が教えてくれた。

1990年代に季節雇用の杜氏制をやめ、元銀行員の母が杜氏に就任。「天明」「一生青春」ブランドを立ち上げ、父が営業にあたり、“福島の仲良し夫婦の酒”として東京を中心に販売していた。

ところが母が病気を患い入院。父も体調を崩した。東京の人材派遣会社で働いていた鈴木氏は「そろそろ戻る時期か」と心の準備をしていた。そんな折、行きつけの居酒屋に行くと実家でつくられた「茶色の天明 一年熟成」が置いてあり、注文してみると想像していた天明とは違う味わいがした。父に電話すると「統括していた母が不在となってから、蔵人がバラバラになり酒質が落ちているのかもしれない」という返答があった。

22歳で故郷に帰った鈴木氏は、母から「命を削りながら習得した酒造技術は息子だからって簡単に教えられない。とにかく利き酒すること」と一蹴され、面食らった。自力で目標とする酒の味わいを見つけるため、イベントに出展するたびに他の蔵の利き酒を続け、年間3,000種類以上を味わってみた。

ある時、山形県「上喜元(じょうきげん)」の大吟醸を飲み、旨くて心が震えるような日本酒があることを知る。見学に訪れてみると、従業員が次から次へと「うちの佐藤社長はすごいんだ!」と自慢してくるほど蔵元が慕われ、朗らかな雰囲気に包まれていた。調和のとれた環境でこそ良酒は生まれる、という現実を目の当たりにした。

反対に、美味しくないと感じた他の蔵の酒は、不衛生な環境で独自理論を用いてつくられていることもわかった。自身の蔵との共通点も多く、鈴木氏は蔵の掃除からはじめた。

並行して、清酒アカデミーや酒類総合研究所で醸造を学ぶことにした。そこで「廣戸川」の松崎氏をはじめ、同世代の蔵元や全国の蔵人と出会い、自身の未熟さを痛感した。
懸命に学び、習った理論をもとに製造工程を修正しようとするも、我流を貫き通すベテラン蔵人としばしば対立して心が折れそうだった。両親の説得もあり争いは避けていたが、出口が見えない暗い日々が続いていた。

福島の地で酒づくりする意味

そしてあの3月11日を迎えた。曙酒造では製造設備のある建物2棟が全壊、他も半壊、倉庫の3,000本の酒が破損した。県内の酒蔵仲間はさらに悲惨だった。浪江町で「磐城壽(いわきことぶき)」をつくる鈴木大介さんは、蔵も母屋も津波に流され、福島第一原子力発電所事故により町に立ち入りさえできなくなった。双葉町で「白冨士」をつくっていた同い年の冨沢真理さんは帰還困難区域に指定され、帰ることが許されず米国シアトルで酒づくりをすべく移住した。廃業を余儀なくされた蔵もある。

「震災前に、白冨士の真理ちゃんを含む地元の酒蔵仲間6人で会津若松の居酒屋・盃爛処(はいらんしょ)で酒を酌み交わした夜が懐かしい。漠然と『この地で商売してこの地で死んでいくだろうなあ』と思っていたけど、叶わなくなることがあるんだ、と知った」と鈴木氏。

悔いのないよう生きると決め、従業員に「僕は福島が好きだから、良い酒をつくって世界に発信することで福島を理解してもらい、魅力をもっと多くの人に知ってもらいたい。そのために作業に時間もかけるし、厳しくなるかもしれないけど、10年、20年後には必ず夢を実現するからついてきて欲しい」と伝えた。蔵人8人中6人が退職していき、若手2人だけが残った。26歳の鈴木氏は正式に杜氏となり、町内に住むいとこを呼び寄せ人手を補い、若い4人で再出発することになった。

少しずつ設備投資もしながら、酒の品質を上げることに注力した。すると杜氏就任の翌年2012年には「全国新酒鑑評会」で金賞、「福島県新酒鑑評会」でも金賞を受賞した。2016年福島県知事賞をはじめ順調に数々の受賞を重ね、ついに「東北清酒鑑評会 2023」で「絆舞 佳酔(きずなまい かすい)」が二位となる"評価員特別賞"を受賞した。

「絆舞」は、全国47都道府県の絆を繋ごう、というテーマで300以上の地域で育った酒米と食用米とをブレンドして造っている。これだけの多品種をいっぺんに使って造った酒は例がなく、高い技術力を要する。自他ともに認める銘酒として生まれ変わった証だ。

みんなで発信する 福島を表現する酒

鈴木氏は「酒を通じて、世界中に福島の魅力を知ってもらう」という目標を持っている。このあまりに壮大な野望はひとりで実現するのは難しい。そこで自社の従業員、取引酒販店、福島県の同世代の酒蔵らと協力していく必要があるのだ。

曙酒造のスタッフと蔵元。製造を担当するスタ ッフの平均年齢は 20 代と若く、蔵全体が明る く活気に満ちている。会社ロゴが印刷されたス タッフジャンバーは、3 色から選べる。

社内を案内してもらうと、従業員がみな若いことに気がついた。笑顔で挨拶してくれる姿が気持ちいい。聞けば、毎年地元高校から採用募集しているという。「給料を渡すから福島を好きになって、とお願いしても無理な話。だけど福島で生まれ育った子なら、福島の土地や人々との思い出があるはず。想いを共有できるのは何にも代えがたい財産。僕らの日本酒は誰かの癒しになったり、大事な局面で飲まれたりする。飲む人の笑顔を想像しながら楽しく造ろう、と話しています。この時代に精神論だけどね」と、鈴木氏は笑った。

酒の品質を上げ、想いを共有し続けていると、全体の30%ほどだった県内出荷率が70%ほどに逆転した。2011年にリリースしたヨーグルトリキュール「snowdrop」が、県内で人気を博した影響も大きい。地元の米で仕込んだ日本酒と、会津中央乳業のヨーグルトを使ったアルコール5%の酒は、若者や酒初心者からも愛され、日本酒文化に初めて触れるきっかけにも繋がっている。

コロナ禍を逆手にとり、オンラインも活用しながら、県外の取引酒販店とミーティングする機会も増やした。たとえば北海道の酒販店との話し合いの中で「北海道産米を使った酒が欲しい」と聞けば、北海道の酒米・吟風と会津坂下町産米とを合わせて造ったPB酒にチャレンジした。自分たちのリリースしたいものを押し付けるばかりでなく、ともに挑戦していくことが、結果として福島を知ってもらう早道になるだろう、と信じている。 

鈴木氏が入社する前に400石だった製造量は、現在1,400石まで増加した。
さらに驚くべきことに、2025年のワイン醸造開始に向けて、ブドウの栽培をはじめているという。今後は福島県各地で栽培したブドウを醸し、それぞれのワインをアッサンブラージュ(調合)してワインの新ブランドを立ち上げ、日本酒「天明」と並べて“福島”を表現できるブランドにしたい、と意気込む。

鈴木賢二先生に聞く 金賞NO.1への道のり

福島の酒は、1990年の全国新酒鑑評会で”金賞受賞ゼロ”という不名誉な結果を残した。アルコール度数が高くて味の濃い酒をつくり、薄めて出荷する、という古い醸造法を引きずっていたせいだった。飲食店からも「地元の酒はイマイチ」と敬遠された。

低迷していた状況を打開しよう、と1992年に酒造組合運営の“清酒アカデミー”が設立された。3年かけて酒造技能を習得する職業訓練校は、基礎を学べるばかりでなく、同期生と仲良くなり、卒業後も活発に有益な情報交換がおこなわれるのだ。

それから福島ハイテクプラザ会津若松技術支援センターの研究員たちの尽力が、不可欠だった。特に鈴木賢二先生がつくった「福島流吟醸酒製造マニュアル」は、金賞数日本一を目指すにあたり大いに貢献した。「見て学べ」という職人然としたあいまいな世界を、理論に基づいた数値をA4用紙2枚に詰め込み、明確に提示したのだ。ベテラン杜氏が新時代の酒づくりに挑戦するにも、若手が効率的に技能を習得するためにも役立った。

「福島県においしい日本酒を増やそうという活動はもとからあって、東日本大震災によって大きなダメージを受けたことで、復興のため『みんなで福島を盛り上げよう』という機運が一層高まりました。ちょうどその頃、松崎くんや鈴木くんの世代が帰ってきました。風評被害もありましたが、『品質で一番になれば福島のお酒を選んでくれるかも』と、みんなで一丸となりましたね」と、鈴木先生は当時の様子を振り返る。

鈴木先生は県職員だったので、土日は休み。しかし幾度となく、週明けに手遅れの状態に陥った酒について相談されることが多かったため、全ての資料に自身の携帯番号を書くようにして、年中無休で対応した。松崎氏も酒づくり一年目、何度も鈴木先生に電話し、サポートしてもらったという。

福島県一丸となり、日本一の酒どころを目指す

金賞受賞蔵数NO.1を5年ほど重ねたあたりで、県民の意識が変わってきた。福島県は広く、会津、中通り、浜通りと山に隔てられることもあり、エリア別の文化を育んできた。しかし県外の人から「福島県?いいなぁ!日本酒どころだね」と言われることも増えた。テレビでは「新酒鑑評会●年連続NO.1」という速報テロップが出て、特番まで組まれるようになった。日本酒が、風評被害に悩まされる県民たちの希望の象徴となったのだ。

本来鑑評会の金賞は、自社のために目指すものだが、福島県は震災以降の風評被害に立ち向かうため、みんなで酒の品質を向上させてきた。『復興』は通過点に過ぎず、各自が日本一の酒を志すからこそ、互いに認め合い、高いレベルでのチームプレイを実現できているように思える。その証拠に、福島の酒はそれぞれ個性にあふれている。

そして世代交代。さらなる福島の未来に向けて

左から鈴木さん、「弥右衛門」佐藤 哲野さん、松崎さん。同い年の友人でありライバル。

ふたりに、互いについて聞いてみた。

松崎氏は「孝市くん(鈴木氏)は緻密な計算をする人。会津だけでなく県全体を考えるなんて偉いなあ。自分も来年には転機を迎えるから、孝市くんが話す経営の話を理解できる存在でいたいな」と語る。

鈴木氏は「松崎は優しい酒造りをする男。曙酒造では、ワイン醸造スタートを契機に”2025年までに叶えたいね”、とみんなで話している新しい夢があります。でも松崎っていうライバルが障害になりそうだな~」と、どこか楽しげに悔しそうな表情を作って見せた。

会津若松市の地酒専門店「會津酒楽館 渡辺宗太商店」の社長である渡辺宗太郎さんは、長年にわたり二人を見守ってきた。彼は次のように語る。
「まっちゃん(松崎氏)は飄々としていて、トップになってもプレッシャーを感じない。一方、孝市(鈴木氏)は悔しさを力に変えて素早く成長するタイプ。性格や目指す方向が異なる二人が切磋琢磨し、さらに次世代の若者たちを指導している姿は心強い」。

酒はなにも考えずリラックスして楽しむのが何より。だけど伝統産業を受け継ぎ、留まることなく進化させ、「おいしい」と言ってくれるみんなの笑顔を守るため、必死に今日も闘う人たちがいることを多くの人に知って欲しいと心から願う。


取材にご協力くださったみなさま、誠にありがとうございます。
※情報は2023年12月取材時点のものです。ご了承ください。

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専門誌からビギナー指南記事まで幅広い日本酒の執筆、セミナー講師、地方創生など幅広く手がけています。日本酒のなんでも屋。
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関ともみ
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