18 終わらない会話のために 光嶋裕介
アメリカ・ニュージャージー州に住んでいた少年時代、夏休みになると、家族で父の運転するダットソンに乗ってどこまでも続く広いハイウェイをよくドライブした。
行き先は、週末に行くマンハッタンと違って、ボストンやフィラデルフィアなど少し遠方の街。どこに行っても、必ずその街の美術館に連れていかれたのが、私にとって最も古い記憶のひとつである。
映画《ロッキー》で有名になった《フィラデルフィア美術館》のあの大きな階段(通称ロッキー・ステップ)も、兄と走り回った。当時小学生低学年だった僕には芸術などよくわかるはずもなく、兄とふざけて遊んでは怒られていたが、ゴッホの《ひまわり》やモネの《睡蓮》、カルダーの彫刻には、子どもながらに惹きつけられた。
それは、頭で理解するのではない、目の前にあるのが本物の芸術作品であるというリアルな実感だった。僕のアートに対するリスペクトや憧れは、この幼少期に一流芸術へのファーストコンタクトによってつくられたように感じている。
そうした経験を通して身体の奥に積み重なった「本物の芸術」体験が、建築家としての私の価値観の土壌を豊かに耕してくれていたのだろうか、建築を学ぶ大学生になると、バックパッカーとして旅する先々で必ず美術館を訪れるようになった。芸術作品に繰り返し触れるうちに、自分の好きな画家ができてくる。とりわけ好きになったのが、ニューヨーク近代美術館(MOMA)で幾度となく観てきたジャスパー・ジョーンズ(1930-)とフランク・ステラ(1936-2024)である。
ジャスパー・ジョーンズとフランク・ステラの「引用」
この2人については、初めて作品に触れた瞬間、眩暈がするほどの興奮を覚えた。一目惚れだった。
ジャスパー・ジョーンズの《旗(Flag)》は、少年だった僕の心に大きな違和感を残した。通っていた小学校の教室に掲げられていた星条旗とは、ずいぶんかけ離れたイメージだったのだ。日本と違い、アメリカでは星条旗はよく目にするし、国歌もよく耳にする。そんなイノセントな愛国心とは違う、漂白されたかのような極度にドライな感触がジョーンズの作品にはあった。何か特別なメッセージが込められているに違いないと思うも、正直よくわからなかった。
父が気に入って買ったジョーンズの《地図(Map)》の巨大ポスターは、今も実家のリビングの壁を独占している。アメリカの地図がラフなタッチの原色で大胆に塗られていて、その上に描かれたステンシル文字の地名がまた不思議な印象を与えている。《旗》と同様に、ジョーンズの絵画から目が離せなくなった。
画家で彫刻家のフランク・ステラも、その独特な造形には一度観ると忘れられない魅力があり、すぐ好きになった。
特に初めて観たとき吸い込まれ、足が止まってしまったのが、《ブラック・ペインティング》である。その名の通り黒一色で描かれた不思議な絵画だ。ステラがジョーンズの《旗》シリーズにインスパイアされて、この《ブラック・ペインティング》を描いたことは、よく知られている。いつだって芸術家たちは、時代を感じ取り、それぞれに影響し合いながら作品を創作し続ける。
建築家の鈴木了二は、『非建築的考察』のなかで、こう批評している。
星条旗は、アメリカ合衆国独立当初の13州を意味する赤(大胆さと勇気)白(純真さと潔白)合わせて13本のストライプと、現在の50州を意味する50の星という記号で構成されている。ジョーンズは、そうした意味を持つ記号としての星条旗の表面から意味を剥がし、ひとつのイメージとしての絵画を提示する。
ステラも、ジョーンズの《旗》の星条旗のストライプから色を消し、線のみにで抽象化することで、私たちに芸術が獲得し得る本当の意味を問うのである。
法と秩序としてのグリッド
20世紀美術批評の大家であるロザリンド・クラウスは、『アヴァンギャルドのオリジナリティ』の巻頭に「モダニズムの神話」を置き、「グリッド(Grid)」と題した文章から論じている。
批評家らしく、わかりにくい文章ではあるが、辛抱してもう少し読み進めていくと、「グリッドは確かに物語ではないが、構造である。しかもこの構造は、モダニズムの意識、あるいはむしろその無意識の内部に、科学の諸価値と精神主義の諸価値との矛盾を、抑圧されたなにものかとして維持する」(p.29)とクラウスは書いている。
つまり、グリッドとは、モダニズムの思想的核としての秩序を示す構造であり、あまりに強く支配的であるため、発展・展開するのが極めて難しいと指摘している。ジョーンズが引用した星条旗というモティーフも、ステラの抽象的な線も、秩序としてのグリッドそのものを描くバリエーションに過ぎないのかもしれない。
「Law and Order(法と秩序)」という言葉もある。思想としての「グリッド」を秩序の表出として考えてみると、グリッドは、法のメタファーとしても解釈できる。
アメリカ独立宣言の起草者のひとりである第3代アメリカ大統領トマス・ジェファソンも、国を統治する上で、各州の領域を示す線を引いた。さらにそれぞれの都市には「ザ・グレイト・アメリカン・グリッド」なるものが引かれた。民主主義によって国に秩序を付与するための構造は、やはりグリッドによって示されていた。
温存された奴隷制度
世界の法と秩序を保つための構造について考えていたら、エバ・デュバーネイ監督が製作した『13th--憲法修正第13条』(2016)というドキュメンタリーを思い出したので、ネットフリックスで再び観てみたら、深いショックを受けた。
ごく簡単にまとめると、1865年に制定された奴隷制を禁止する修正法「合衆国憲法修正第13条」は、すべての人に自由を認めるはずだったが、「犯罪者(criminal)は例外」という除外規定が付けられていた。これが法の抜け穴となり、人種差別が蔓延り、弱者が搾取され続ける惨劇からアメリカという国が抱える矛盾を明かしていくという作品だ。
第16代リンカーン大統領は、奴隷だったフレデリック・ダグラスと対話し、「奴隷解放」という大義名分を与えることで劣勢だった南北戦争に黒人を出征させたが、終戦後、暗殺されてしまった。その後修正第13条が制定されたものの、本当の意味で奴隷をなくすことはできなかった。
白岩さんが第10回で論じたように、白人と有色人種を隔離するジム・クロウ法は1876年からキング牧師などの公民権運動などによって廃止される1964年まで存在し、アフリカ系アメリカ人に対する根強い差別的な人種問題は形を変えながらずっと存在し続けている。この修正第13条の除外規定に示された「犯罪者」は、結果的に奴隷と同義となり、弱者が搾取され続ける構造が温存されてきたのだ。
「クラック」と呼ばれるコカインなどの麻薬の売買や乱用を理由にアフリカ系アメリカ人やヒスパニック系アメリカ人が、次々と逮捕・投獄されるようになった。1970年に35万人だったアメリカの刑務所に収監されている受刑者数は、80年には51万人、90年には1117万人、2000年には201万人とものすごい勢いで膨れ上がっている。アフリカ系アメリカ人の投獄率は、人口比率よりもはるかに高い。その結果、おびただしい数の家庭が崩壊し、貧困と犯罪がループする負のスパイラルが生まれてしまった。
修正第13条がアフリカ系アメリカ人コミュニティに与えた打撃は計り知れない。奴隷制がなくなっても、犯罪者という弱者が現代の奴隷として搾取され続ける構造は今なお残っているのである。
作品中、大量投獄を可能にする法律によって刑務所が民営化し、ビジネスとして潤っている様までドキュメントされていたのには、言葉を失った。なんと、ALC(米国立法交流協議会)なる団体が、大量投獄を可能にする法律を立案したり、刑務所内での安い労働力から利益を得る企業からサポートを得たりしていたのである。
それと並行して、マジョリティである白人が警察という権力の座につくことで、社会は深く分断し、軋轢が大きくなるにつれ、BLM(ブラック・ライブス・マター)などの運動が生まれていく。
Never Enoughの精神で「法と秩序」から自由になる
さて、グリッドに話を戻そう。
建物を設計する際にはまず、柱や壁の位置の基準として「通り芯」という線を引くのが常である。通り芯は、横(東西)にX1、X2、X3……、縦(南北)にY1、Y2、Y3……という具合に引かれていく。つまり基本的に、通り芯という「グリッド」を下敷きに、建築のデザインは考えられている。通り芯という「法と秩序」の下に建築が考えられているといえるだろう。
第6回で書いたように、ミースもジョンソンも、きれいにグリッドに沿った近代建築をつくった。都市の時代である20世紀において、グリッド都市の最高峰であるマンハッタンが、資本主義のアメリカで繁栄したことは偶然ではない。
しかし、である。そんな当たり前の「グリッド」を拒絶する建築家も、アメリカにはいる。カナダ出身で、ロサンゼルスを拠点に活動するフランク・ゲーリーである。
ゲーリーの建築は、グリッドを基準にしない自由な造形が特徴的な、幾何学に収まらない「デコンストラクション(脱構築)」建築である。
20世紀末にスペインの廃れた工業都市に完成したゲーリーの代表作《ビルバオ・グッゲンハイム美術館》は、世界中から観光客を呼び寄せている。この作品は、ひとつの圧倒的な建築には街を復興させる力があることを示したエポックメイキングな建物で、世界中の都市がこの成功体験を真似をしようとする「ビルバオ効果(Bilbao Effect)」が起きたほどである。
ゲーリーの建築がグリッドに抗うことができるのは、新たな建築の秩序を自ら創出したからである。
設計手法はプリミティブかつリアルだが、デジタル技術を駆使してバランスよく設計を進めることで、唯一無二の建築をつくり続けているのである。ゲーリーは、紙の模型で設計をすることで知られている。理論的というよりも、直感的な感性が設計の中心に据えられていて、その作品からは、本人が楽しんで設計していることがよく伝わってくる。
ゲーリーの評伝を書いたポール・ゴールドバーガーは、「彼は設計手法を語るとき、『検討する』よりも『遊ぶ』という言葉を好んで使ったが、まず建築の機能的なプログラムを表す大小様々な大きさの木のブロックを使って『遊ぶ』ことから始めるのが好きだった」(『建築という芸術 評伝フランク・ゲーリー』、ポール・ゴールドバーガー、訳 坂本和子、鹿島出版会、2024、p.380)と書いている。加えて、「フランクは世界の混乱や矛盾を愛し、自分の建築はそれらを祝福するものでありたいと望んでいたが、その一方で、彼は根っからの完璧主義者でもあった。そして、彼は設計プロセスそのもの、そして設計がまだ固まっていないときの無限の可能性が好きだった」(同上、p.381)と考察する。
そんな子どもの工作遊びのような模型を、飛行機などの航空業界で使用する設計ソフト(CATIA)を使ってデジタル情報に還元し、そこから実際に建設するための実施設計を進めていく。建築の設計(造形)のみならず、施工(材料)や見積り(お金)にもデジタルな合理性を追求する。「ゲーリー・テクノロジーズ」なる総合システムまで自作し、専用の会社を設立してしまう徹底ぶりである。
ゲーリーの評伝のタイトル『建築という芸術』(原題:Building Art)が示すように、法や秩序としてのグリッドから自由になるためには、建築家は「芸術」をつくる姿勢を忘れてはならないのである。ゴールドバーガーは、「すべての芸術作品は、作者の人生から生まれるものである。しかし、最も偉大な芸術作品には、わたしたちに内省を促し、それを自分自身の経験として昇華させる力が備わっている」と書き、次のようにゲーリーの評伝を締め括っている。
「設計がまだ固まっていない無限の可能性」にこそ、創造的に内省を繰り返す自由がある。
私は、このゲーリーの姿勢に心から共感する。なぜなら、なにかをつくることの最大の喜びは、つくった後にわかることが多いからである。建築を設計するとは、建築をつくる前から計画することを意味するが、すべてを予め計画することなどできないし、つくってみなければわからない偶然性をも引き受ける必要があると私は考えている。
建築家として私のモットーは、「Never Enough」である。より良いものをつくるために、貪欲に学び続けたい。満足して、わかった気になることを恐れ、常にもっと成長できると信じて、行動したい。このリレーエッセイの初回(第2回)で私は、自分は「オプティミスティック(楽観的)で、プラグマティック(実利的)な人間」だと言われると書いたが、その原点はこのモットーにあるのかもしれない。「Never Enough」であるために、ゲーリーのように「どこに向かっているのかわからない」という感覚を、大事にしたいのだ。
自分のグリッドを見つけるために
『怒りの葡萄』で自然の猛威と資本家たちと戦う貧しい農民の物語を描いた作家のジョン・スタインベックは、ノーベル文学賞受賞後の晩年に発表した文明論的なエッセイ『アメリカとアメリカ人』の最後で、未来に向けて次のような複雑な希望の言葉を紡いでいる。
スタインベックのいう「道」は、これまで述べてきた「グリッド」とも共鳴する。法と秩序としてのグリッドは、他者から与えられるものではなく、自らが生きるものであるべきだ。
ゲーリーがグリッドから自由に建築を設計したように、自らの喜びの感覚(遊び)を頼りに、新しいグリッドをそれぞれが見つけるには、どうしたらいいのか。この問いに模範解答は、ない。「わからない」から歩むのであり、実際に道を歩くことによって、後からそれぞれの意味が訪れる。
歴史小説家の司馬遼太郎は、「文明という人工でできあがった国」アメリカを訪れて書いた『アメリカ素描』(新潮文庫、1986)の最後を次のようにまとめている。少々長いが引用したい。
ここで司馬は、アメリカという文明が世界にもたらしたグローバリズムと、国家が抱える矛盾を的確に指摘している。そして、アメリカの悪癖が911を引き起こす前に、司馬はこの世を去った。この「アメリカのようになれ」という悪癖をどうしたらなくせるか、その鍵は、個々人の寛容さにかかっていると思えてならない。
世界を破壊するのではなく、ましてや自分を破壊するのでもなく、それぞれの道を他者への敬意を持ちながら進むこと--それこそが分断を自覚した上で共存できる豊かな道であり、「生き直す」ために必要なのは、寛容な姿勢なのだろう。あるはずもない唯一の真理を探求する近代哲学を否定したアメリカの哲学者リチャード・ローティは、プラグマティズムを展開する中で、「会話を継続させること」を哲学の使命として再記述した。
完全に矛盾なく生きられるほど人間は強くない。自分自身の考え方さえ変わっていくのだ。変化の中で矛盾を減らすには、多様なものをゆるく統合することが必要で、そのためには他者との会話を続けていくしかない。わずかな想像力があれば、できるはずである。
ローティを研究する哲学者の朱喜哲は、「『寛容』とは、思いやりや配慮などではなく、自身の利害関心に適度にブレーキをかけ、他者の利害関心の追求に首をつっこんで、それを自分ゴト化しないように心がけることです。さらにいえば、それは自身の利害関心にもとづいた想像力をはばたかせてしまい、あらゆるものを敵か味方かに二分してしまうような習慣を見直すこと(『〈公正〉を乗りこなす』、太郎次郎社エディタス、p.140)」と指摘する。
これは、頭でわかっても、実践するのはなかなか難しい。しかし、矛盾に絶望することなく、少しでも生きやすい社会を手づくりするために、与えられたグリッド(法と秩序)を傍観するのではなく、寛容な姿勢で自分なりの会話を続けたい。日本人として、アメリカという国について考えていくこととは、そういうことなのではないだろうか。
◉この連載は、今回で終了です。8ヶ月間、ご愛読ありがとうございました! 秋には書籍化を予定しています。どうぞお楽しみに。
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