タンザン鉄道
タンザニアとザンビアを結ぶ長距離列車に乗車することがアフリカ大陸縦断の目的の1つだった。ダルエスサラームから、カピリムポシ(ザンビアの都市)までの全長1860kmを走る。現地では、TAZARA(タザラ)鉄道と呼ばれている。運行状況は、週に2回。火曜日と金曜日だ。本来なら余裕を持ってチケットを買っておくべきなのだが、生憎オフィスの休みと重なったこともありぶっつけで当日のチケットを買いにいくほかなかった。列車の出発時間は13時50分。余裕を持って10時半ごろにチケット売り場に着くように宿を出た。ダルエスサラーム駅まではタクシーで移動するのだが、怖いのはアレだ。だから駅まではUberを使った。
駅は想像していたよりも大きく、立派だった。駅構内のチケット売り場には既に長い列ができていた。ダメ元で当日券を尋ねた。あった。運がいい、ツイていたようだ。1等車、2等車、3等車の3種類があったが迷わず1等車を選んだ。(3等は日本のボックス車両と同じような座席タイプ。これで4日間はかなり無理がある。2等は寝台タイプの6人部屋。1等は4人部屋だった。みんなもきっと1等にするよね?)値段は86000シリング。使い古されたような型紙でできたチケットを受け取る。買えてよかったと安堵した。駅構内には現地人は勿論、数名の外国人旅行者がみられた。アジア系女性に声をかけられる。どうやら中国人だと勘違いしたらしい。日本人だわボケェ。その隣には見てわかった。日本人だ。それも大学生ぽい。話すと案の定、日本人だった。彼らは今日の列車ではなく、後日の列車チケットを購入しに来たという。列車の出発時間までの数時間を彼らと談笑しながら過ごした。
左が日本人。名前は小松航大。香川県出身。同い年の大学生で、慶應ボーイだ。現在は大学を休学して、世界一周旅行をしているらしい。ちょうど半年くらいと言っていた。僕と同じようにアフリカ大陸を縦断しているらしい。(僕よりも期間はもっと長いが)ゆっくりと旅できることに多少の羨ましさはあった。エチオピアで彼は首しめ強盗に遭い、持っていた荷物全てを失ったらしい。もちろんパスポートもだ。にも関わらず、パスポートを再発行し旅を未だ続けている。強盗に遭った際の傷を見せてもらったが、ミミズ腫れになっていて、まだ痛々しかった。強靭なメンタル。普通ならすぐに帰国する。強盗に遭いながらも旅を続けるとは、正気の沙汰ではない。とにかく、同世代の人間が凄まじい事をしているのを知り刺激を受けた。
いよいよ列車が出発する時間になる。彼らとはここでおさらばだ。まだ東アフリカを旅する彼に、持っていた地球の歩き方を託した。わずか1週間ほどしか使わなかったが(というかほとんど使っていないが)僕が持ち歩く意義もないと感じた。本の最後のページに名前とInstagramのアカウント名、「大切に使ってください、良い旅を!」という書き置きをしてアフリカに置いておく。どんどん渡していく、バトンタッチ方式にした。今ごろは一体誰の手に渡っているのだろうか。はたまたどこかに捨てられているのか。それは僕にはわからない。
麻薬犬による荷物のチェックを終え、いよいよ列車に乗り込む。1等は4人部屋で、写真のようになっている。下の段で景色を楽しむ。それが理想だったが、先着順だった。渋々上の段に陣取る他なかった。列車には(部屋は違ったが)僕の他に日本人2名が乗っていた。マモルさんと、エイスケさん。2人とも世界一周をしている。マモルさんは26か27歳だっただろうか。勤めていた職場を辞め、世界一周へ。エイスケさんは神戸大学の学生で、1年間休学しロンドンへ語学留学。その後3ヶ月間ボランティア活動をして、今に至る。彼らはしばらく行動を共にしているらしく、親密だ。2人とは最終目的地(ケープタウン)とルートも同じだった。結局彼らとはザンビアのリビングストンまでおよそ1週間、一緒に行動した。この場を借りて感謝の意を示したい。どうもありがとうございました。マモルさんは今ごろアメリカにいるのだろう。エイスケさんの行方は知る術がない為どうにもできないが。きっと今もどこかを旅しているはずだ。
列車はゆっくりと動き出した。3人で食堂車両へ行き、ビールを購入し飲んだ。3000シリング。ビールを飲んでから3時間余り、寝台に横たわりずっとスマートフォンで動画を見ていた。テラスハウスは面白いから、ついついずっと見てしまった。(出国前大量にダウンロードしておいた)18時ごろだったはず。同じ部屋のおっちゃんに怒られた。そんなものをいじっていないで、景色を見ろ。ゲームなんかするな、と。ゲームしてないよと反論しようとしたが、止めた。6秒間冷静になって考えた結果だ。余談、イライラした時に6秒間考えると怒りは収まるらしい。何のために、アフリカに来たのか。日本人に会えて、どこか甘えている部分があったのではないか。もう2度と見ることができないかもしれない、アフリカの大自然をなぜ眺めないのか。景色を眺めると、鮮やかな夕日が空を赤く染めていた。自分で自分が馬鹿馬鹿しくなり、嘲笑し、軽蔑した。良くない。それ以来、Netflixのダウンロードした動画は飛行機での移動のみ見ることにした。夕食は3人で食べた。中々美味い。列車にはなんでも揃っているから不自由することはなかった。22時半ごろまで、スワヒリ語の勉強をした。マモルさんがスワヒリ語の教科書を持っていた。それを拝借したのだ。同部屋の彼らは熱心に教えてくれた。さっきまでバチバチしていたおっちゃんが1番親切に教えてくれた。列車は思ったよりも揺れる。中々寝れなかった。
翌日、朝7時半に目が覚めた。アフリカの明け方はとても冷える。寒さで目が覚めた。しばらく景色を眺めそれから食堂へ行った。同じ部屋のGivenと朝食を食べた。彼は23歳。大学を卒業し、祖母の家に向かうという。朝食を食べ終え、チャイをすすっていると人々が突如歌い出した。賛美歌とかいうやつだろうか。とにかく綺麗なハーモニーで、朝から気分が良くなった。部屋に戻り、景色を眺める。相変わらず飽きない。景色を見ながら、スワヒリ語の勉強を続ける。こちらも、相変わらず難しい。ただ、スワヒリ語で話しかけると現地の人々はすごく嬉しそうな顔をする。その笑顔をみると僕も何だか嬉しくなる。言葉って不思議だなぁとすごく感じた。Givenが降り、部屋は2人きりになった。(バチったおっちゃんはいつのまにかどこかで降りていた)そのタイミングで、部屋の移動を命じられた。マモルさんとエイスケさんの部屋に移動することになり、偶然にも下の段をGETした。部屋で談笑したり、食堂車両で飯を食べたり、景色をひたすらに眺め続けた。8/15の深夜2時ごろ、起こされた。そして列車はザンビアとの国境で停車した。車内でイミグレをうけ、ビザ代50ドルを支払いスタンプをもらう。寝ぼけていたが、ついに僕は3カ国目に突入した。写真がGiven。元気かなぁ…
ザンビアに入ると、なんとなく雰囲気が変わったような気がした。これは勝手な個人の見解だが、子供達はやけにお金をねだるようになったと感じた。「物乞いではなくて、働いて稼ぐことを覚えなさい」マモルさんは日本語だけれども、子供たちに対してそう言った。なるほど、と思った。物乞いで育った子供の未来は、なんとなく想像がつくような気がしたからだ。問題に対して答えを最初に求めがちな自分と、どことなく重なる。このままではいけない。自分を戒めるように、彼らを見ていた。ノートの切れ端で折り紙をすると、子供たちは大喜びしていた。
早朝4時。列車はついに終点カピリムポシに到着した。とても濃く、長い列車旅だった。Wi-Fiもない、携帯電話とおさらばした時間がとても長かった。色々なことを考え、向き合った。日記をつけていたと前述したが、実際にしっかりとつけ始めたのはこの列車に乗ってからで、エチオピアの日々はざっくり書かれた軽い日記と、僕の記憶でなんとなくだった。だからタンザン鉄道での日記には、その時感じたものが細かく書かれている。その中の1つをここに書き、今回の投稿を終わろうと思う。
携帯電話を触っている時間、退屈はしない。ただ、充実は絶対にない。画面を見ている分、他の視覚情報は奪われ、入ってこない。同時に、それは大切な出逢いを逃していることを意味している。
およそ4日間のタンザン鉄道の全貌はこんな感じです。次回はザンビアでの生活と今回の旅で1番辛かったあるアクシデントを紹介しようと思います!お楽しみに🤤
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