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思ったことを、つらつらと。

2020年も残すところ3ヶ月程度になった。

就職活動を7月に終え、学生最後の時間を今は過ごしているのだが、驚くほど時間の経過が早いと感じる。就活中は終わりが見えない不安からなのか、外出がためらわれる状況の中で閉塞感を覚えていたからなのかは定かではないが、とにもかくにも24時間という単位の実態を今以上に感じていた。

サッカーを始めたり、全国優勝をなしとげたり、異質な環境に長らく身を置いた末に、全く新しい世界に飛び込んだ先で、文字通り未知の世界を旅してまわったり。今年で22歳になったが、幸運なことに僕は必ず前年を超える感動を味わい続けることができている。残り3ヶ月でこの身に、あるいは周囲にどんなアクションが待ち受けているのか、興奮を隠せないでいる。無論、待っているだけでは期待できないので自分から行動するのだろうなぁと思ったりしながら今も日々を与えられたミッション(勉強は嫌いではないから別に苦ではないし、最近楽しいと思ってきている)を意識しつつ、過ごしている。結局のところ、待望しているだけの人生は性にあわないだけなのかもしれないが。

購入した端末が不意に故障したことでしばらく携帯電話のない生活を余儀なくされたが、あれはあれで良かった。ようやく復活したことで、この時感じたことやらを忘れないうちに記録しておこうという何かの切迫感を覚えたので、今回久々に文字盤を打つ作業をしている。とはいっても、何を書こうか考えているうちに随分と時間がかかってしまった。テーマはブレブレであるが、自分らしくて良いのではないかと何度も言い聞かせながら書いた文章なのでそこは容赦していただきたい。(僕の書く文の隠れファンがいることを信じている)


携帯電話のない生活は、結論から言うとたいへん不便だ。1例を挙げると、こんな様相だ。待ち合わせは事前に場所を指定しなければならないし、どちらかにアクシデントが起きてもそれを知らせる手段がない。

実際に、それは起きた。送ってくれた友人の車内に交通費の入った財布を忘れ、駅から帰れない。どうしたか。とりあえず駅前の交番に向かい事情を説明して友人伝えでまた降ろしてもらった場所に戻るよう警察官が喋る電話を介して、連絡してもらった。電話番号を知っておいて良かったなあと感じた。電話を受けた友人は警官からの突然の連絡に間違いなく驚いただろう。この場を借りて、傍で彼の様子を想像してひとりこっそり楽しんでいたことも併せてお詫びしたい。そして何より戻ってきてくれた友人にも大感謝だ。ありがとう。

不測の事態にその効力を発揮する一方で、ないことにおける良いこともあった。

先ずは、外界との関わりを持つ機会が増えた。とはいっても、この状況下で外に出ることはあまり無かったのだけれど、家族との会話も増えた。(別段、家族との会話は一切しないとかそんなことではないので安心してください)普段見つめる機会が少ない自分自身という存在を外部の存在と置くのであれば、その機会も増えた。読書は通知音を気にして気が散るようなことは無かったし、寝る前に今日一日を振り返ったりすることで明日を意味のあるものにしようと強く思えるようになった。何より、寝つきが良くなったことで朝も気持ちよく目が覚めた。飼い始めて5ヶ月が経つペットの癖を新しく発見したりもした。デバイス越しの世界から離れたことで、影になっていた様々な事実が浮き彫りになり、そしてそれは新鮮で退屈することはなかった。ただ、それは見出したものでもあるから、あるorないでは、あった方が圧倒的に良い。携帯電話の保証サービスには入っていた方が良いのかもしれない。(新しく契約した携帯だが、もちろん保証サービスには加入していない。壊れてもまた違った楽しみを見出してみせるという自信の裏返しである)


他に書くことがあるとすれば、僕は就職活動を経て随分と丸くなった。地に足が着いたというか、比較すべき相手は常に自分自身であることに気がついたというのか。とにかく、肩の荷が軽くなった気がする。人には人の価値観があって、人生がある。自分の価値観や人生を深く考える時間があったから、そう割り切ることが出来るようになったのかもしれない。それによってごめんなさいとありがとうが前よりも直ぐに言えるようになった気がする。ちなみに、僕の恩師である大槻毅さんはよくこの言葉を口にしていた。

「ごめんなさいとありがとうは早い方が良い」

とは言っても、彼の口からそれを耳にしたことはあまり記憶にない。でも、僕はこの言葉には確かになと思う部分がある。全くその通りであるし、こんなに便利な言葉は他に存在しないと思う。(あまりにも行き過ぎた行為はさすがに許されないけども)

少し違う話をする。僕は大学3年の春にインドという国に訪れた。とにかく強烈で今でも鮮明に覚えているほど素晴らしい国だったのだが、その理由が最近判明した。きっかけはとある本のなかに書かれていた1文、あるイギリス人女性が言っていたとされる次の言葉だ。

「英語やフランス語、中国語や日本語にはあるが、ヒンドゥー語にない言葉が3つある。それはなにか。」

「ありがとう、すみません、どうぞ、の3つよ」


まさにこれだ、と思った。(実際には存在するが、使われないためほとんど死語になっているらしく、その理由はカースト制度にあると推測される)

脳裏にこびりついた原因は紛れもなくこの圧倒的な文化の違いで、同時にこうはなりたくないと言う思いが増した。ただ、その中でまた違う、まあ、こういう所もやはり面白いなぁという寛容というべきなのか、来るもの全てをプラスに受け入れようとする遊び心なのかはわからないが、ある意味日本人の当たり前が世界では異常であるということを明確にさせた瞬間でもあったから、学ばせてくれてありがとう、と言った具合に変換することが出来た。

話は戻るが、自分にとっての当たり前はあくまで自分という世界の中でのみ通用して、誰かにもそれぞれの世界があるからこそ何かしらの衝突(時として感動を生み出すから面白いし、素晴らしい)を起こす。その時は直ぐにごめんなさいが言えるとお互い気が楽だし、ことはよい方向に進むはず。「自分がされたら~だなぁ」とか、「~をしてもらいたいからこうしよう」とかいう範疇で行動していた過去の自分から離脱できたと思っているからこそ、ああ、だいぶ僕は丸くなったんだなぁという感覚を抱けたのかもしれない。



以上、

「携帯電話はすごく便利です」

という話と、

「インドは行ける時行っとき」

というお話でした。


また何か書きたくなったら書こうと思います!


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