研修医よ。あきらめるな。:洗礼
やっと医者になった!
咲山雄太は、大学を卒業した3月末、群馬県の実家の近くの県立図書館にいた。視聴覚室のパソコンの前に座っていた。今日は、医師国家試験の合格発表の日なのだ。実家にパソコンのない雄太は、図書館まで来た。午前10時に発表予定だ。あと5分。
トイレに行ったりそわそわしている。津軽大学を卒業した雄太は、栃木県にある下野大学での研修が決まっていた。レジデンス住宅という名の社宅も大学が用意してくれている。すでに、荷物も運び入れてしまった。もしも、これで不合格だった場合、全てが取り消しだ。
国試直前の模擬試験で、学年で100人中80番代だった雄太は、10人は落ちると言われている国試の結果にすっかり怯えていた。
10:00の時計とともにHPを見る。
「0133」
あった!
目から涙が溢れてきた。
自宅にいる母に電話した。
「受かってたよ。」
その晩は、親戚中集まって、お祝いをしてくれていた。
父親は鉄工所を自営で営む。母親の叔母も同業を営んでおり、従業員がたくさんいた。
叔母が行きつけの飲み屋で、親戚も従業員もみんなが集まって、盛大に祝ってくれた。
妹二人と、上の妹は彼氏まで連れてきてくれた。
「雄太、おめでとう!」
親戚中探しても、医者になった者はいない。
母親の姉である晴子叔母さんは、鉄工所を大きく営んでいた。私が、学生時代に教科書などの学費に困って、奨学金を増やそうかと母親と相談していた折、晴子おばさんが仕送りをしてくれたりした。
「晴子おばさん、ありがとう。」
晴子おばさんの目には涙が溢れていた。
この晩、私は喜びを噛み締めていた。夢にまで見た医者になったのだ。雄太は、地元でも進学校の公立高校を卒業し、1年浪人した上、国語がどうしても苦手で、センター試験で国語配分が少ない青森県の津軽大学に入学したのだ。留年せずに、無事卒業して、やっと医者になったのだ。
「俺、本当に医者になるんだな。」
周りが大騒ぎしている中、妙に心の中が静かなのを一人感じていた。
研修医オリエンテーション
5月初旬にオリエンテーションがあった。
「雅男、久しぶり!」
なんと、同じ高校出身の同級生が、他県の医学部を卒業して、同じ研修医として肩を並べていることを知った。菊川雅男は、確か、父親が勤務医だ。上州中央病院の内科医だ。雅男は地元の上州大学を卒業して、研修は下野大学を選んだようだ。
僕らが、研修医になったのは、初期臨床研修制度ができて初めての年だった。このため、多くの大学病院は、研修制度をこの制度に合わせて作っていた中、下野大学は、全国の大学病院に先駆けて、ローテーション研修を実施していた。大学病院の中でも研修先としては良いと思って選んだのだ。
僕の友達の多くは、市中病院と言われる市民病院や私立の病院を研修病院に選んだ。なぜなら、直接患者に携われて、研修医の内から手技などを任せられるからだと言う理由だった。
雄太も、いくつかの市中病院も見学したが、どちらかというとおっとりで、ゆっくり物を考えるタイプであり、多くの症例を経験するのも大切だが、多くの医者の中で、学術的な考える力を養いたいと言う思いもあり、大学病院での研修を望んでいた。その中で、下野病院は自分にフィットしたのだ。その仲間に高校の同級生が居たのは嬉しかった。
「雅男、元気か?」
「おう、元気さ。お前こそ、変わらないな。これから、よろしくな。」
オリエンテーション
オリエンテーションは、大学病院の北側に位置する中央棟の最上階である8階で行われた。五月晴れの日差しが窓から差し込む。栃木県が一望できるんじゃないかっていうくらい良い天気だ。
各研修医は、2年間の研修期間のローテーション表というのを渡された。内科は8科あるため、内4つを選択する。小児科、消化器外科などは必修だ。そのほか、耳鼻科や眼科などは選択科目になっている。
白衣が2着、研修医の名札と共に、渡された。スクラブなどは自由に購入できるらしい。
研修医初日
5月が連休を明けるとすぐに研修は始まった。神経内科に割り振られた。僕の指導医となったのは、小柄な女性医師だった。名前は中島美恵子。
「私、中島。神経内科に入局して5年目かな。咲山先生、よろしくね。」
僕は、びっくりした。研修医となった途端に「先生」と呼ばれるのだ。「咲山先生」か。
研修医にとって、指導医との相性が研修に質を左右すると言っても良い。中島先生、一体どんな先生なんだろう。
中島先生の上に、もう一人、船山朔太郎先生という助教の先生がいた。どうやら3人チームのようだが、船山先生はほとんど病棟に顔を出さないという。中島先生の役割が大きい。中島チームは、合計7人の患者を担当していた。カルテを見ながら、中島先生の患者説明を聞いていた。
「雄太くん、これから、回診に行くよ。患者さんに紹介するから。」
「はい、よろしくお願いします。」
突然のコール
白衣がまだしっくり来ないなと感じながら、中島先生の後をついて医師室を出ようとすると、看護師が突然、飛び込んできた。
「中島先生、木村さんの呼吸が止まっています!早くきてください。」
小柄な中島先生が、突然、廊下を走っていった。
僕は慌てて、聴診器を肩にかけながら、追いかけていった。
病室に着くと、中島先生は、脈と呼吸を確認して、心臓マッサージを始めた。
「アンビュー用意して!家族は連絡とってる?」
僕は、呆然と立ち尽くすだけで、何もできなかった。
76歳男性木村瑛二さん、パーキンソン病で肺炎で入院中、BiPAP使用中、突如の心停止。
家族からは、気管内挿管までは希望していないという同意書があったそうで、1時間ほどの救急蘇生の後、心拍は戻らず、家族の到着を待って、死亡確認となった。
家族は、涙を流しながらも、中島先生の対応に感謝していた。
研修医としての洗礼
一通りを終えて、医師室に戻ってきた。中島先生の手には、冷蔵庫から冷たいペットボトルのお茶が2本あった。
「咲山先生、これ、あげる。」
「ありがとうございます。」
「雄太、持ってるね。研修医初日から、死亡確認に立ち会う医者はなかなか居ないと思うよ。」
「え。それより、中島先生、カッコ良かったっす。寸分の隙なく、指示出して。」
「医者ってそういうものよ。」
「へ〜。」
咲山先生と呼ばれたり、雄太と呼び捨てされたりして、びっくりするが、それは口にしないでいた。僕は、自分の心の中に、不安がむくむく大きくなってくるのを抑えられないでいた。
「僕は、本当に医者としてやっていけるのだろうか。」
こんな土壇場で、中島先生のように冷静に判断し行動できる自信がない。
そうやって、僕の研修医1日目は終えた。