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美大への道のり(12月1日文学フリマ東京39寄稿)

※以下の内容は、12月1日に開催された文学フリマ東京39にて、「Fragaile」に寄稿させていただいたものになります。

 ー2015年4月、中学校入学。
あなたは長い中学受験の道のりを経て、憧れのセーラー服に袖を通し、正門をくぐりました。これからの生活に期待を抱きながら。
この後、長い長い美術ライフが待ち伏せていることも知らずに。
まさか、あなたが美大生になるなんて、その時は頭の片隅にもなかったことでしょう。

 東京都23区の最西端にある私立の女子校。
かつてはマンモス校とされ、周辺地域だけでなく、他県からも多くの女子が受験する憧れのお嬢様学校。
しかし、近年の少子化やら時代の変化やらに取り残され、完全に時代遅れの校則やカリキュラム、古めかしすぎる校舎、昭和気質強めの指導方針によって定員割れを起こしていた。
ただ、その古めかしく昭和の香り漂う校風が、昭和生まれの過保護な親たちの間で少しばかりの需要があった。

 「中学受験なんて、所詮親のエゴである。」というのは事実。
親も子もそれを理解した上で集団塾や個別指導塾に多額の月謝を支払い、志望校合格を目標に向けて勉学に励んでいる。
私はそれを悪いことだとは思わないし、中学受験を批判する人の意見も悪いとは思わない。大事なのは、受験をした本人が置かれた環境を最大限に利用し、活路を開くことだと考えている。

 当然、私の志望校も親が決めて受験している。
私の親は、私が人間関係や生活面で苦労しないように、と考えた。なので、当時の私の偏差値よりもはるかに低い私立学校を受験させた。
私は保育園を中退、小学校はいじめや病気で不登校だったこともあり、親は過保護な環境でまともな学校生活を送れるだろうと考えた。
親の考えは良くも悪くも当たっていた。いざ入学して周りを見渡すと、そこかしこに私と同じように「訳あり」と思われる娘たちと過保護な保護者が集っていた。

 入学してすぐ、クラブ決めがあった。私は美術部に入部した。
決め手は「文化部」「活動日は週2日」「先生や先輩が優しい」「大会や朝練、休日練習がない」からだ。とても邪な理由。
母親は「学業最優先」を私に口すっぱく言い聞かせていたため、「とにかくゆるい部活」を探した結果がこれだ。

 絵を描くのは楽しいことだとは思ってもいなかった。
過去に絵画教室に通っていたこともあったが、楽しいというよりも、決して私を否定しない雰囲気が良かったから。美術部も同じく、私を否定することなく、ありのままの私を受け入れてくれた。
芸術とは、否定してしまったら成立しない分野で、そこで試合終了となってしまう。「独りよがりな世界」とはよく口にされる文句だが、それを言うことも「独りよがりな感想」である。理解できる者だけが肯定し、そうでない者も嗜む程度に触れることができればそれで良いのだと思う。

 描くモチーフ決め、構図を決める。鉛筆で下描きをする。筆を走らせ、ポスターカラーで画面全体に色彩を与えていく。この行為ひとつひとつを噛み締め、時を刻みながら生み出す。
入部して初めて描いた絵が公募で入選した。夏休みに描いた作品が文化祭で金賞を受賞した。これらはあくまで結果でしかないが、確実に私の自信となった。
描くことの楽しさ、表現することの美しさ、誰かに作品を認めてもらえることのこの上ない喜び、これらは全て恩師が私に教えてくれたことだ。
恩師はこの学校の卒業生で、私たちに美術を教えていた。後に私が志す「美術の道」という選択肢も恩師の影響が大きい。
当時の私は、素直に、「この先生のような人になりたい」と思った。

 次第に美術の世界に惹かれていく私を見て、母は私を美術予備校に入れることを決めた。
中学1年生の夏、都内のありとあらゆる美術予備校を見学した。見学した中で、自宅から一番近い予備校に決めた。どの美術予備校にも分野ごとに強みがあり、「デザインが強い」「彫刻が強い」「油画が強い」などの特徴があり、教室の雰囲気も微妙に異なる。どの予備校も良かったが、立地と講師の「入ってみませんか?」の一言が決め手となった。
新宿の西側にある小さな予備校。私は毎週日曜の午後に通った。
私の通う学校は私立学校なので、土曜も午前授業がある。今まで以上に忙しくなり、学校の成績との両立が求められたが、なんとか両立できていた。

 中学3年生になる前の冬、高校受験を決意した。美術が学べる高校に入学することを決めたのだ。
無能な担任は私が受験で修学旅行に行けなくなることを心配した。受験と修学旅行、どっちが大事なのだろう。その他の教員も私が他校に行くことを残念がっていた。
学校で唯一、恩師だけが私の背中を押してくれた。

 「頑張ってね、良い知らせを待ってるよ。」

 もう決めてしまったことなので後戻りは許されなかった。受験コースに足繁く通い、長期休みは講習会に参加した。ほぼ毎日鉛筆と筆を握り、デッサンや着彩をこなした。
当然、画力は上がると思っていた。しかし、私の画力はある程度のところまで到達すると、そこから進化できなくなっていた。これがいわゆる、「迷走」ってやつ。美大受験生がぶつかる一番大きな壁。始めたばかりの時はどんどん上達することに喜びを覚えるが、ある程度の時点で道に迷い込んでしまう。ここで一皮むけることで次のステップに進めるが、私はその時間が長かった。

 受験を目前にした中学3年生の秋、私は模試で下段の評価を受けた。
「下段」というのは、美大予備校で作品の講評をする際に上手なものは左上から順に並べるルールがあり、評価の高いものは「上段」、評価の低いものは「下段」になる。
下段に置かれた自分の作品を睨む。講師からは「何がしたいの?」などと酷評を受けた。なぜ私は美術をやっているのか。目の前のモチーフと睨めっこする時間が憎い。勉強のように数字で評価できない世界。ドツボにはまった私は完全に壊れかけていた。
今、当時の私に声をかけるとしたら、「もっと素直になれ」と言うだろう。
もっと素直な気持ちでモチーフを見て、素直に描けば良かったのだ。

 勉強の方は学校の教育が過保護だったことと割と勉強が好きだったため、都立模試でもある程度の成績を収めていた。予備校講師は私や母に一般の高校も視野に入れるように勧めたが、それは許せなかった。私が受験する理由は美術の道に進みたいからであって、別の高校に行きたいからではなかったから。

 その後間もなく、志望校を変更した。
都立高校ではなく、私立高校の受験を決めた。学費が高いことを懸念して都立高校を選択していたが、本当に行きたいと思っていた私立高校の方に進学したい旨を了承していただいた。
志望校を変えると、不思議と背中に感じていた重くずっしりした圧のようなものは薄れていった。自分でも本当によくわからないが、目標を明確にしたことで私の頭の中でモヤモヤとしていたものが消え、倒すべき敵がハッキリと見えるようになったといった感じだろうか。

 段々と調子を取り戻し、酷評されることも少なくなっていった。それどころか、講評では前向きな言葉をかけられることが増えていった。これが、「一皮むける」ということか。今考えると講師陣も私に気を遣ってくれていたのだろう。とにかく、間違いなく良い方向に進んでいた。

 午前に数・国・英の学力試験、午後に2時間のデッサンの試験があった。
もうよく覚えていないが、想像以上の受験生の数があった。でも私はそれに怖気付くことなく進んだ。今までできる限りの努力を重ねてきた。もう怖いものなんてない。

 ー2018年4月、高等学校入学。
あなたは真新しい制服に袖を通し、時折短く切った髪を気にしながら、新しい学校の門をくぐりました。
美術の世界に正式に足を踏み入れた瞬間。
あなたはこの瞬間をどれだけ待ち侘びていたことでしょう。

 日本で唯一の美術大学付属の女子校。
一部では「珍獣の集まり」「あらゆるヲタクが共存する空間」と噂の弊学は、その噂通り、個性溢れる女たちで溢れかえっていた。このおかしな学校は、私を良い意味で自由にしてくれた。昭和の香り漂う中学時代とは180度違う環境が私を待っていた。
普通科というのは形だけで、週10時間も美術の授業をしている。当然、定期テストもあるが、テスト1週間前に美術の課題の提出があり、長期休みも容赦なく美術の課題が出されるなど、受験への配慮は一切ない、とんでもない学校。学校行事は充実しており、体育祭や文化祭、球技大会は準備期間が与えられ、盛大に行われる。おかしな学校だ。

 美術の授業は言うまでもなくレベルが高い。
生徒のやる気は個人差があるものの、皆ある程度のレベルを保ち、教員は本気で生徒に接している。口には出さないものの、「君たちがやっていることいはお絵かきではない」ことを間接的に示してくる。これが美術で食べていくことの覚悟であり、意味なのだろう。
上手な作品は提出後に廊下や階段、下駄箱の壁に展示される。生徒や教員の中でも暗黙のルールがあり、下駄箱の壁や廊下に展示された作品は「非常に良い」、階段展示になった作品は「極めて良い」といった評価になる。
中学から入学している生徒の画力は高く、発想も柔軟で洗練されている。私もそれに負けじと放課後はアトリエに残って制作をした。上手な人の手元を見て技術を盗む。人がいなくなったアトリエで放置されている作品を眺め、良いところを真似していった。課題が終わらず何度も徹夜をした。これを繰り返すうちに私の作品も下駄箱の壁や廊下に展示されるようになり、階段展示になる作品も増えた。クラス替えがあった時には、周りから「絵が上手な子だよね!よく展示されているから名前見てわかったよ。」などと声をかけられるようになり、大変誇らしく思えた。これが私の高校生活における青春であり、唯一輝いていた瞬間。

 そんな中でも大学受験をする人も多い。私もその受験組になったが、そこでも大迷走することになる。
大学付属の高校なので、通常であれば内部推薦で大学に入学できるが、その学費の高さに圧倒され、国立大学への受験を検討することになった。
世間では医学部の学費が高いことで知られているが、美大もかなり高い学費がかかる。しかも美大は卒業後の進路が正社員だけでなくアーティストやフリーターなど、その中で成功する人間は一握りであるため、美大受験に反対する親も少なくない。最近では芸術系の出身でも就職先があることが知られてきてはいるが、浸透するまではまだまだ時間が必要だろう。

 藝大を目指すことも考えたが、家族に浪人を大反対されたため諦めざるを得なかった。それもそのはず、藝大合格を達成するにはそれ相応の実力が必要であり、美術予備校に多額の費用を支払うことになるからだ。致し方ないことだ。その代わり私は週1回、美術予備校に通うことを許された。

 高校3年生の秋、美術教育課程のある国立大を推薦で受験したが、残念な結果となった。受験というのは残酷だが、この世界は決して甘くないことを教えてくれた。
他大学を受験してしまったので、内部推薦は失格になった。
散々迷った挙句、私は自分の大学に一般入試で受け直すことを決めた。正直浪人も覚悟していたが、そこまでして何を達成したかったのかがわからなくなっていた。今浪人すると、もっと深い森に迷い込んでしまうことになりそうで、行けるところに行こうと思った。そうするしかない、と思った。

 高校に入って以来、勉強というものはほとんどしてこなかったので、共通テストは2週間前から勉強を始めて散々な結果を残した。よく覚えていないが、英語5割、現代文6割、現代社会7割、世界史3割くらい。世界史の3割には爆笑した。2日目の生物は欠席。
それでも、美大は実技の割合がほぼなので、滑り込みで2つの専攻に合格した。迷わず家が近い方の専攻を選んだ。

 ー2021年4月、大学入学。
あなたは着慣れないスーツに袖を通し、正門をくぐりました。
あなたはこの日、どんな気持ちでしたか。
この4年間の大学生活を通して、「これで良かったのか」の答え合わせをすることになるのでしょう。

 「#春から〇〇」と書いてSNSに投稿する行為は大学生にありがちな行為。
高校であまり友達ができなかった私も少しは仲良くなれるだろうと投稿し、予想通り同じ専攻の友達ができた。
それぞれ趣味や考え方は全く異なるものの、4年経った今でも姉妹のように仲良くしている。大学生にもなって、これほどまで密な関係を築ける環境は弊学以外であるだろうか。それだけ同じ時間、空間、生活を共にしてきた証とも言える。

 想像以上に忙しい日々が待っていた。
「大学生は暇」という世間の噂とは相反して、毎日締め切りに追われる。やっていること自体は高校生活の延長だが、細々としたレポートや作品の締め切り、テスト、プロジェクトがあるので、まとまった休みがない。一難去ってまた一難。常に複数のタスクを並行して進めていく必要がある。

 やれることは全てやってみる精神の元、デザインのアルバイトやアートプロジェクトなどに参加し、スキルと経験を積んだ。いくつか資格も取って、教職や学芸員関連の実習もこなした。
制作ではチームワークを求められることが多く、元々リーダータイプではない私が主導しなければいけない場面が多くなった。初めの1、2年はかなり頭を悩ませていたが、今では慣れたもので、現場でも上手く立ち回れるように成長していった。

 就活では絶対に失敗しないと心に決めていたので、大学3年生の夏から片っ端からインターンに応募して参加した。ガクチカ、履歴書、エントリーシート、ポートフォリオ、面接のスキルを身につけた。
本気でデザイナーになりたいと思い、休日にはグラフィックデザインを生業とする師匠の講座に通った。
就活は必ずしも早く動けば早く決まるというものではないが、自分の武器を見つける場でもあり、やって損はない。

 私はこれまでとてつもない遠回りをしてここに辿り着いたが、この遠回りが私の人生であり、一つの生き方。
しかし、人間は脆い。たびたび壁にぶち当たっては壊れる。ただ、壊れることを知らない人もいるだろう。そんな人が羨ましいと思うのは人間の性だろうが、壊れたことのある人間には何にも変え難い強さがある。

 春から社会人になる。デザイナーという重すぎる肩書を背負う。
私はこの先もまた壊れ、その度に再起を繰り返すだろう。
これは再生のためのFragile、私がこの世界を渡り歩くために必要なFragile。私はFragileしては大きく息を吸い、立ち上がり、また前進していく生き物、常にそうでありたい。

 これまでの人生が正解だったかなどといったことは、誰にも知り得ないし、考えるのもおかしな話。今やれることを全力で取り組み、常に新しい自分を生み、自分自身は自分の手で変えていくしかない。
そう教えてくれたのは間違いなく美術であり、私はこの存在に一生感謝し続けるのだろう。この世界は時に厳しく、私を脆くするが、絶対に敵ではない。

 これから美大目指す、あるいは美術の道を目指す人たちへ。
あまり大したことは言えないけれど、モチーフは一つの角度から見ずに多角的に観察しよう。


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