幼少年時代
(中学3年「貧乏」より、昭和8年頃)
僕がものを言いた始めは、「出る。」と云う言葉であったと云う。
親切な祖母がそれこそ僕を大切にし、おしめを縫ったり洗ったりすることを百度で今でも名残にそのため洗いバケツを運んだためのタコがある。「おシッコ出るの、シーツ、シーツ、出るの、おシッコ出るの。」と度々叫んだので到頭、言葉の萌が「出る。」と言い出したそうです。今はそのときのチャンチャコと浮湯に使用した桶らしいものが見受けられる。何時だかエンツコが外に捨てられてあった。
綺麗な清々しい邸宅(青森県弘前市)に住居していたときは何時も燦々たる晴天の日ばかり続いたようだ。部屋々々の電気は恍惚と四隅を照らしていた。小さいときから良く泣き、良く喧嘩し、無邪気であった。無邪気は今も変わらぬと云う。大家(貸家)に這入っていた聯隊区司令官から可愛がられて羊かん等を時々貰ったことが記憶にあります。
歩き始めは東京の地を踏んだと云う。凄い仕合せもので、東病院(今のお茶の水順天堂病院)で何と思ったのか院長先生にお辞儀をしたらそれが特別丁寧だったので、「おお!可愛いゝ子」と目の廻る程多忙な院長が頭を撫ぜて呉れたことは今だに眼の底に白服の印象が残っている。それから常に美人の写真を祖母に見せつけられ、「これはベッピンさんよ。」と指し話されていた僕は、患者控室の硝子張日本間で真中にある青い丸火鉢を囲んで寒い冬の暖をとっていた若い女達をジロジロ見廻して、「ベッピンさんな、タンタ居た。」と言ったら、皆「キャッ!」と叫んで大笑い、中には顔を赤らめた人もあったと云う。
豊橋で喧嘩し、女の子の髪を引張り泣かせたこともある。僕が泣き出せば泣きやまず、「最っと泣くんだ」と云ってワーワー泣く児であったと云う。
猫と犬は大嫌いであったらしく、或る夏の晴れた日に三毛猫が縁側から侵入して、茶の間、玄関と出て行ったとき、何も知らずにおとなしく戯れていた漢は悲鳴を揚げたことがあると云う。
祖母の若い頃の此辺は、田圃ばかりで蛙の声が聞かれ、小川がさらさら流れていたと云う。今では町の真ん中のようになってしまった。その頃の家は、茅ぶきの百姓家が2、3軒あるばかりで側方に小学校(弘前第二大成尋常小学校)があり、その児童たるや25名位で、月謝は16銭、明れやかで長閑な別天地であったと云う。
飴五、めたり、アツコのヲヂコ、ソゴのアンサ、アスコのチヤコなんて遊んでいた。袖凧はそらに揚げれないで、街道を引摺って喜んでいた。赤い翼の地上を走る玩具の飛行機を飛行機は空飛ぶものとのみ思い込んでいた僕はいきなり手で投げ揚げて、買って貰ったばかりの大きい玩具を破壊して叱られ、馬鹿を見たこともあった。
しかし、思い出せば小さいときのことは幸福に写って、不幸を知らなかった。その幸福な僕が唯一度、1ヵ月ばかり不幸を味わったことがある、今にして考えると、それは貧乏神にとりつかれたのであった。
4、5才頃、天井板が張ってあり、畳はいつもピカピカ光っており、家のどこにも蜘蛛の巣のない金殿玉楼が目に映じていたわが家、そしてあのやさしい母や神々しい祖母は何処へ消失してしまったのか、屋根裏の黒い煤だらけの廃れた畳、真っ黒い蒲団に両眼を開くと横わせられていた。いつの間に連れて来られたのか解らない。
はて、今のは幻であったのか、傍には臭い酒に酔いつぶれた父が寝おり、その向うに婆様が仰臥していた。泣くに泣けず辛い感に怖われたが致し方がなかった。
荒屋は、狭い小路にあって、向いは赤壁となっており、玄関口より奥へ6畳だか8畳だかの汚い二間続きがあってその尻が台所、家の中に便所が見当たらない。部屋の右は黒い貧乏箪笥、左方には棚があって、その上に大きい 楽があったようです。内便所がないので冬でも台所から半丁離れている隣家の外便所に行くが、中に這入ると吹雪が屋根から舞い込んで泣きたくなります。道に沿うて粗略で疎らな壁が打倒れそうに立っており、電柱は雪が氷附いており、軒場には氷柱が下っている。全くひどい所だ。
食事は朝から晩まで粥飯で昼に鱒がつくだけ、始終茶漬けばかりだ。父が此処へ仮住居したのだ。母が病気で祖母と一緒に東京へ行ってしまい、僕は何も知らずに寝ている所をその儘移されて来たのだった。
父は弁当を持って仕事に行って終うし、婆様は家を空っぽにして遊びに行くし、一人留守で幼い僕はシク、シクと泣いたものです。今までに仕合わせな邸宅に生活していたときは一人で留守をしたことがないので余計に悲しみが身に沁みたものです。
おやつは、酸っぱいせんなり林檎、バケツにできた板氷、そして隅にこんなに大きな薩摩芋位なので、何時も御腹を壊していた。電燈の設置はなく、傘洋燈が、薄暗く室を照らすのみでした。父が仕事から帰ってきて、酒乱になると大きな燭楽を地響きさせて廻して呉れるが、壁に打ち附けることが多く、僕はその都度、恐れて縮みあがり、戦慄き、泣き喚いたものです。入口の方に枕べて小さい子供だから父と一緒に寝かされる。酒臭い父を大嫌いな僕は、四肢でその背中を突っ張って夜具の外に出し、風邪を引かせては擲られ、或時は天井から落ちてきた大きな煤を手にして「之何一に」と尋ねて「うるさい」と嫌と云う程頬を擲られたものです。
「お母チャンのところへ帰ろう、帰ろう。」と何回も父や婆様に尋ねても叱られこそすれ、帰すことは愚か母の居所らして呉れません。やるせない僕は遥か彼方の空を眺めては、愛らしき指を歯に加えて幼心に染々と泣き明かしたものです。
1か月後、悲しみに包まれた日暮れに父に瀬尾合われて慈善館前にやって来ました。そこで「内に帰るか、活動見るか。」と聞かされたので、「内に帰る、早く」と言うと「活動みてそれから….」と母の元へ戻るのをじらしていました。
羞明しい電球を見詰めている僕を、白歯に金歯を輝かせて祖母が「これ、これー」と東京土産の兵隊玩具を眼に突付けて呉れたときは唯呆然として、後から嬉しさがこみあげてきた来た幼心の複雑さはもって筆舌に言い表せません。漸つとわが家に戻ったのだ。
新しい白布が掛かっている蒲団の側に、母が美しい単禅を着て微笑んでいた。玩具は鉄砲、刀剣、金米糖、の入った下げ瓶、喇叭等でした。父が面白がって、餘りに喇叭を吹きつけたので壊してしまい悔しがったことは良く覚えている。
貧乏はつくづく嫌なものです。この貧乏生活のことは、悔しいと言おうか、辛い目にあったと言おうか、泣くに泣けない浮世に晒されたのだ。それからと云うもの、何時でも、そして今でも婆様が来れば、唐紙や障子を諦めて逃げ廻るのです。