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恋人は少しブス24

 DLTの旗揚げ公演は驚く事に連日満員の盛況ぶりをみせた。しかし客席を見ればそこに並ぶ顔ぶれは演劇ファンとかロックファンとかいうのではなく明らかな親類縁者のオンパレード、といった感じ。つまり劇団が演劇界で話題になったというより、親族や友達の間で、アイツは本気であのゲキダンとやらをやってくのかい?みたいな感じの話題になったといったところだったと思う。

 もうひとつ僕が心の底から驚いた事があった。その時僕は家というか母の元を飛び出していたのだが、反発して今関係が最悪であるはずのその母親が叔母と一緒に観劇に来てくれたのだ。僕は劇場で母の顔を見て言葉を失った。結局叔母が母と僕の間であたふたとして何となく時間が過ぎた。が、そろそろ楽屋を片付けなきゃと話しにひと区切りをつけようとしたら母が口を開いた。

 びっくりしたわ、何だか立派な青年を見てるみたいで、トンちゃんとは思えなかった
(僕のニックネームはトンちゃんだった)
 その母の言葉は決して嫌味とか皮肉とかではなく僕が成長した事を母親として本当に喜んでくれているとしか受け取れなくて、顔には出せなかったが非常に嬉しかった。嬉しくて仕方なく、思わず溢れそうになる涙をこらえるのに必死で埃っぽい舞台袖でただ一言、ありがとう、と言うのがやっとだった。

 その直後だった。母がステージ4の卵巣癌だと発覚した。

 僕は母と妹が暮らしていたアパートに戻る事にした。僕は母と妹の信仰していたエホバの証人から排斥処分といって、つまりは追放されていた。一度排斥処分になるとたとえ家族であっても必要最低限の会話しかしてはならない教団のルールがあった。それでも母の状態を知って僕は戻らざるをえなかった。その後も僕は様々な部屋に移り住んだがあれほど静かで冷たく、そして辛い空間に暮らした覚えはない。それは今現在に至るまでだ。

 母は少しして手術のために入院した。その時の話しはすでに、僕と母の神様、という文章に書いてブログにあげてある。しかし今URLもそのブログサイトの名称すら忘れてしまった。調べないとわからない。ただここで書きたい話しは母との事ではないのでこれ以上は書かない。

 母を病室に一人にはしたくないという事で僕か妹のどちらかが母に付き添った。だからアパートはいつも一人きりの空間だった。2DKのアパートの四畳半の部屋が僕の居場所。以前なら聖書などが並んでいた本棚に今はニーチェやリヒテンシュタイン、何枚かのロックやジャズの名盤が無理矢理立てかけてあった。ピンクフロイド、リターントゥフォーエバーとかマイルスもあった。フリートウットマックやディーボ、カラヤンのベルリンフィル?かなんかのもあったしもちろんユーミンや拓郎の元気ですなんかもあった。雑食だ。それらがサイケデリックな柄ですっかりタバコくさくなった壁のタペストリーみたいな物と渾然一体となっていた。


 そしてその部屋こそ僕とPが初めて結ばれるための場所になる。


                   つづく


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