北関東の石造物㉙:西横手宝篋印塔、附・清泉寺宝篋印塔(伝・畠山重忠の墓)
名称:西横手宝篋印塔
伝承など:なし
所在地:群馬県高崎市西横手町 西横手町公民館前
高崎市西横手町の公民館前に建つ大型の宝篋印塔は、明治初年に廃絶した西福寺にあったものと言う。
南北朝時代末期の明徳元年銘があり、三メートル近くある大型塔である。
この宝篋印塔は、基礎と塔身の間に須弥壇を象った中台を置く、「須弥壇式宝篋印塔」と呼ばれる群馬県と埼玉県の北部にのみ存在する特殊な形式である。
須弥壇式宝篋印塔は南北朝時代から室町時代前期にかけて盛んに造立されたが、初期の事例は群馬県渋川市周辺に集中しており、次いで南北朝時代後期、貞治年間から応安・永和年間には埼玉県北部地域に事例が集中し、同時期には東毛でも新田岩松氏およびその一族内で造立されている。
群馬県前橋市・高崎市・藤岡市などの西毛地区において造立されるのは、それよりもやや後のことであり、むしろ西毛地区では須弥壇式宝塔の方が先に出現する。
この西横手の宝篋印塔は、西毛地区の在銘須弥壇式宝篋印塔としては最古、かつ最大の塔である。
完形であり、かつ紀年銘のある須弥壇式宝篋印塔の作例として貴重である。
この西横手の宝篋印塔の直後に造立された須弥壇式宝篋印塔が、甘楽郡下仁田町の清泉寺にあり、これがこの時期に最も西方に伝播した作例である。
清泉寺は、寺伝では鎌倉時代前期に、畠山重忠の弟の重俊が僧侶になって重忠を供養するために結んだ庵が前身と言う。
境内墓地内にある須弥壇式宝篋印塔(下の写真二枚目、三枚目)が、畠山重忠の供養塔と言うが、南北朝時代の石塔であり、また畠山重俊なる人物の実在も確認出来ないのであくまで仮託であろう。
宝篋印塔には明徳二年銘があり、銘文の内容からすると在地武士の夫婦の供養塔のようである。
西毛地区は山内上杉氏の所領が多く、藤岡市や甘楽・富岡地区には、秩父平氏流の高山氏を始め、山内上杉氏の被官が多いが、この石塔を造立したのもそうした山内上杉氏被官の在地豪族であろうか。
この宝篋印塔は、甘楽・富岡地区のおいて南北朝時代に造立された須弥壇式宝篋印塔としては唯一の事例であるが、前年に造立された西横手の宝篋印塔に比べると中台が装飾的で、中央に飾りを持つ。
これは、藤岡市増信寺にある須弥壇式宝塔(応永十一年銘があり、「北関東の石造物⑥」で取り上げた空恵寺の宝塔よりもやや新しい年代の造立と思われ、いづれこちらでも紹介する予定である)と共通する装飾である。
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