雑記:駿河大納言の墓

二代将軍徳川秀忠の子、三代将軍家光の弟として生まれ、その封地の名と官名から駿河大納言の通称で知られる徳川忠長は、秀忠とその夫人・崇源院の寵愛を受け、一時は家光の地位を脅かしかねない存在であったことから家光に疎まれ、最終的には所領没収の上、上野の高崎に幽閉されて自刃を命じられている。

その数奇な運命から悲劇の貴公子として知られ、テレビドラマや小説で取り上げられることも多く、また1980年代から90年代初頭に里見浩太朗主演で人気を博したテレビ時代劇「長七郎江戸日記」(原作は村上元三の時代小説)の主人公・松平長七郎長頼の父としても知られる(ただし、長七郎は講談から生まれたキャラクタで架空の人物)。

幕府にとっては罪人であるが将軍の実弟と言う尊貴な身分もあって、忠長の墓は複数の場所にある。

いづれも江戸時代の前期から中期、新しいものは後期の造立になるので、石造物としてはさほど見るべきものはないが、個人的には徳川忠長の事績は興味深いので、主な墓所を三箇所ほど紹介したい。


まずは、忠長が自刃した高崎の大信寺の墓地にある五輪塔、これは忠長の四十三回忌に当たる延宝三年に造立された供養塔で、同寺には忠長の遺品や自刃した部屋も残されており、毎年命日には忠長を偲ぶ茶会も催されている。

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大信寺から歩いて五分ほどの所にある高崎城は、現在は大半が市役所の敷地になってしまっているためあまり城跡としての面影はなく、土塁と堀の一部が残るのみであるが、井伊直政が江戸時代初期に築城し、忠長を預かった安藤氏の居城でもあった場所である(江戸時代中期以降は大河内松平氏が高崎藩主)。

城址の一角には乾櫓と門が建っているが、これは明治維新後に競売で旧家に買い取られて蔵に使用されていたものを、1970年代に高崎市が買い取って移築したものである。

大幅に修復の手が入っているが、群馬県内に残る櫓建築の遺構としては唯一のものである。

なお、現在乾櫓は石垣の上に建ち、付近には石垣と塀もあるが、これは櫓移築の際に造った模擬石垣であり、本来高崎城に石垣はなかった。

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京都府京都市左京区の黒谷にある金戒光明寺は、幕末に京都守護職会津藩が本陣をおいたことからわかるように徳川家ゆかりの寺院であり、同寺の広大な墓地内にも忠長の墓がある。

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忠長の墓は、境内東方の墓地入口近くの墓域にあり、形式は宝篋印塔で忠長の没年に比較的近い時期の造立と思われる。

こちらは春日局が造立した供養塔で、家光の乳母であった春日局はいわば忠長の政敵で彼を追い詰めた張本人の一人であろうが、流石に寝覚めが悪かったのであろうか。

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なお、同じ墓域にはやはり春日局によって造立された忠長と家光の生母で、徳川秀忠夫人・崇源院の供養塔である巨大な宝篋印塔も建っており(下の写真一枚目)、また春日局自身の供養塔(下の写真二枚目)や、徳川家康の側室で、家康死後に喜連川義親に再嫁した養儼院(黒田氏)の墓(下の写真三枚目)もある。

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最後に紹介するのは神奈川県鎌倉市扇ガ谷の薬王寺で、入口を入ったすぐ右手にあり、こちらは笠付角柱塔である。

これは忠長の夫人であった松孝院(織田信長の次子・信雄の子の織田信良の娘)が造立した供養塔で、忠長以外に実家織田家の両親や兄弟、そして自身の法号も刻まれ供養の対象となっている。

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