雑記:肥前平戸

長崎県の平戸市は長らく松浦氏の城下町であった地で、戦国時代末期にポルトガルやオランダなど南蛮・紅毛と呼ばれたヨーロッパ諸国、あるいは中国や東南アジアとの交易で栄えた町でもあった。

そのため、今でもその異国情緒を誘うような史跡・文物が多く残されている。

平戸市の中心部、旧城下町にあたるエリアは平戸島にあり、九州本土から平戸大橋を渡った先にある。

再建された平戸城(下の写真一枚目)や、平戸を代表する風景である寺院と教会が同時に見えると言う不思議な景観(下の写真二枚目)、あるいは「オランダ橋」と呼ばれる元禄年間に松浦氏によって造られた石橋の「幸橋」(下の写真三枚目)など、見所には事欠ない。

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平戸は長崎の出島に移る以前にオランダの商館があった所で、今でもその遺構がいくつか残っている。

「オランダ坂」(下の写真一枚目)、「オランダ塀」(下の写真二枚目)と呼ばれる漆喰の塀や石畳の道、あるいは「オランダ埠頭」と呼ばれる船着き場の跡(下の写真三枚目)や、近年復元された商館の倉庫(下の写真四枚目、内部は資料館)などがそれである。

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オランダと同じ紅毛人の国で、やがてオランダとの競争に敗れて日本からは撤退したイギリスも、かつては平戸に商館を構えていた。

そのイギリス商館の跡地は先程紹介した幸橋のすぐ近くで、現在の十八銀行のあたりにあったが、遺構はなく銀行の前に石碑が建つのみである。

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戦国期に平戸を拠点の一つとした王直は明の海商で、所謂「嘉靖大倭寇」の際の頭目の一人として東アジア海域を股にかけた人物である。

前述の「寺院と教会が見える」景観の近くには、王直の屋敷跡がある。

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また街の中心部には、王直や後述する鄭成功など、平戸ゆかりの人物の銅像がある。

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王直の像の後ろに見える石段を登った所にあるのが松浦史料博物館で、ここは平戸藩主松浦氏所蔵の文物を保存・展示している博物館である。

敷地内には松浦家の当主が明治時代になって建てた茶室・閑雲亭があり、ここで出してくれる茶は、江戸初期に松浦鎮信が創始した「鎮信流」と言う武家茶の点前である(ちなみに、この時に出される茶菓子は、平戸銘菓で江戸時代は松浦家門外不出の菓子だったと言うカスドースである)。

また、松浦史料博物館の自動車の登り口付近にある小堂には、「薩摩塔」と呼ばれる石塔の断片がある(向かって左側には六地蔵塔の一部もある)。

薩摩塔は中国にルーツを持つ石塔で、九州の一部にしか見られず、完形の塔は少ないが、非常に装飾性に富んだ独特の石塔である。

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旧城下町の中心部から少し離れた川内地区は、鄭成功の父・鄭芝龍の屋敷があった場所とされている。

鄭芝龍は王直同様、東アジア海域を股にかけて活動した海商で(活動時期は明末で王直よりもやや後輩に当たる)、後に明に帰順し、さらに明が滅亡すると今度は新たに勃興した満洲人の建てた清朝に従った人物であった。

その鄭芝龍の拠点の一つが平戸にあり、彼は平戸藩士・田川氏の娘(田川マツ)を娶ってその間に鄭成功を設けている。

鄭成功は、近松門左衛門の人形浄瑠璃で大ヒットを飛ばした「国性爺合戦」の主人公・和藤内のモデルとなった人物として知られているが、鄭成功は幼少時を平戸で過ごしており、鄭成功ゆかりのスポットが川内地区にはいくつか残っている。

鄭成功の生家であるこの鄭芝龍の屋敷跡は、以前は金比羅神社の社殿(下の写真六枚目)と跡地を示す木標があるだけであったが、2013年に鄭成功記念館がオープンし、その後入り口に門(下の写真一枚目)が造られるなど近年整備が進んでいる(金比羅神社は現在も記念館の隣にある)。

記念館は一室だけの狭いスペースであるが、展示品やビデオなどを通じて鄭成功の生涯をたどることが出来るものになっている(下の写真三枚目は幼少時の鄭成功と田川マツの像)。

展示品の中には、鄭氏が所蔵していたと言う媽祖(中国の道教における航海の女神)像もあり(下の写真五枚目、記念館が出来るまでは近くの川内観音堂に安置されていた)、また鄭氏旧蔵とされる文物の一部は、前述の松浦史料博物館でも公開されている。

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記念館の近くの千里ヶ浜は、鄭成功記念公園として整備されているが、ここにはやはり近年建てられた鄭成功の石像がある。

​石像の隣に建つ石碑は、幕末の嘉永年間に平戸藩主の松浦氏が造らせた鄭成功の顕彰碑で、「鄭延平王慶誕芳跡」と言う名称である(延平王は鄭成功の爵位)。

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​この千里ヶ浜は、鄭成功の母・田川マツが鄭成功を産み落とした場所と伝承されていて、母親は浜で漁をしている時に俄に産気づいて自分で鄭成功を産み落としたと言うが、その際にマツが寄りかかったと言う岩があり、これは「児誕石」と呼ばれている(あくまで伝説の領域であるが)。

以前はもっと大きな岩だったが、波に年々侵食されるうちに現在の大きさになってしまったと言う。

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鄭成功は少年期にはすでに大陸に渡り、やがて清朝に降った父親と袂を分かち、彼は明の皇室に義理立てして最後まで清朝と戦うが、「国性爺合戦」の「国性爺」とは本来は「国姓爺」で、鄭成功が明の亡命政権の君主(唐王/隆武帝)から信任されて明王室の姓である「朱」姓を賜ったことに由来する。

鄭成功はやがて台湾島を征服し、そこに独自の政権を築くが結局病死し、明を復興する夢はかなわなかった。

その台湾にある鄭成功の霊廟から分霊された廟が、近年彼の生まれ故郷の平戸にも建てられた。

場所は記念館と千里ヶ浜のちょうど中間くらいの小高い丘の上にあるが、内部には、着色された鄭成功の木像が納められている。

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