滋賀県内の石造物⑲:浄厳院宝篋印塔(六角氏頼供養塔)
名称:浄厳院宝篋印塔
伝承など:六角氏頼供養塔
所在地:滋賀県近江八幡市安土町 浄厳院
JR安土駅から西方へ十分ほど歩いた所にある浄厳院は、南北朝時代に六角氏頼が開いた慈恩寺が焼失した後に、織田信長が再興した寺院である。
楼門(一枚目)や本堂(二枚目)はその際に信長が再興の際に他所から移してきたもので、重要文化財に指定されている。
境内墓地には開基・六角氏頼の供養塔と伝承される南北朝時代の宝篋印塔(三枚目)がある。
全体的には南北朝時代の特徴を持つが、基礎の格狭間は鎌倉時代後期の遺風があり、南北朝時代でも比較的鎌倉時代末期に近い造立かも知れない。
とすると、応安年間に没している氏頼の供養塔としては若干のずれがあるため、実際には氏頼が造立した氏頼の父・時信、もしくは先祖供養塔と見るべきであろうか(時信は貞和二年没なので、概ね宝篋印塔の年代と合致する)。
同寺には、室町時代中期の当主である六角満綱、持綱、時綱の墓もあると伝わるが、境内墓地にはそれに該当する石塔はなく、あるいは境内の片隅に集められている中世の五輪塔の残欠(三枚目)が、元々六角氏の墓塔なのかも知れない。
なお、境内墓地には戦国時代末期の甲賀の豪族で、足利義昭に仕えた和田惟政の墓と伝わる五輪塔(四枚目)もある。
2024年9月8日追記
上記の記事を書いてしばらくして、戎光祥出版より刊行された新谷和之編『図説・六角氏と観音寺城』に、浄厳院の六角氏頼供養塔の写真が掲載されているのを目にした。
ただ、同書に掲載されている写真は五輪塔であり、南北朝時代のものと紹介されていた。
あるいは、宝篋印塔とは別に供養塔があったのを見落としたのかと思い、再度浄厳院を訪れた所、宝篋印塔のすぐ近く、和田惟政の五輪塔の隣に、紹介されていた五輪塔があった(下の写真)。
ただ、五輪塔はどう見ても南北朝時代よりも下るもので、水輪や火輪の形からするに、古く見積もっても室町時代前期から中期で、六角氏関連の石塔なのかも知れないが、氏頼の供養塔とは思えない。
新谷氏がこれを氏頼の墓と判断したとは思えないので、おそらく戎光祥出版の編集部が誤解したのであろう。
この五輪塔の前に氏頼供養塔の案内板があるので、思うにそれを五輪塔に対する説明と誤解したのであろうか(とは言え、案内板には「宝篋印塔」と明記されており、宝篋印塔のすぐ脇にも氏頼の供養塔と言うキャプションがあるので間違えるとは考えにくいが、後日撮影した写真を確認する際に混同が起こったのかも知れない)。
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