南関東の石造物⑤:犬掛層塔(里見義通・義豊の墓)
名称:犬掛層塔
伝承など:里見義通・義豊の墓
所在地:千葉県南房総市犬掛
房総の館山から南房総市にかけては、戦国時代に安房に勢力を誇った里見氏ゆかりの史跡も多く、犬掛もそうした場所の一つである。
戦国時代の安房里見氏の系譜には不明な点が多く、その動向がはっきりと確認出来るのは、通説で三代当主とされている里見義通からであり、義通の子の義豊は、従兄弟の義堯(義豊の弟・実堯の子)との抗争に敗れ、天文三年四月に犬掛の合戦で敗死した。
以降は里見家の当主は義堯の家系に代わり、そのため義豊以前を前期里見氏、義堯以降を後期里見氏と呼んで区別している。
その両者の合戦があった場所とされる犬掛の古戦場跡には、里見義豊とその父で三代当主の里見義通の墓と伝承される層塔二基がある。
この層塔は元来、里見義豊が犬掛に創建した里見家の菩提寺・大雲院にあったものと伝わる。
大雲院は明治初年に廃絶し、その際に層塔は、一時近くの貝津田観音堂に移されたが、後に大雲院の跡地である現在の場所に戻されたという。
向かって左側が義通の墓(三枚目)、右側が義豊の墓(四枚目)とされ、どちらの層塔も初層以外の塔身と相輪が欠損しているが、室町時代中期から戦国時代にかけての造立と推定される。
大雲院の跡地にあることから、この層塔が里見氏関係の石塔であることは確かであろうが、二基の層塔は同時期に造立されたと考えられるため、伝承の通り義通・義豊二代の墓とするには不自然である。
里見氏は安房入国後、まず安房南部の白浜を拠点にして、次第に安房の中心部であった稲村に進出していったされる。
従来安房里見氏は、初代義実以下、成義・義通・義豊の四代が、前期里見氏として一つの系統と見なされてきたが、近年では一つの系統ではなく、刑部少輔の官途を称し、白浜を本拠とした義実―成義と、民部少輔を称して稲村を本拠とした義通―義豊の二つの系統に分けられ、成義と義通は兄弟であろうという指摘がなされている。
この説が正しいとすれば、犬掛にある二基の層塔は伝承にある義通と義豊の墓ではなく、稲村を本拠にした義通が、里見家の菩提寺を開いた際に造立した父の義実と、それ以前の里見氏の氏祖の供養塔と考える方が妥当かもしれない。
なお、層塔のある犬掛は、滝沢馬琴の『南総里見八犬伝』で犬の八房の生誕地とされている場所である。
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