九州地方の石造物⑦:安養寺跡五輪塔(伝・武藤資頼の墓)

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名称:安養寺跡五輪塔

伝承など:武藤資頼の墓

所在地:福岡県太宰府市観世音寺 安養寺跡


「遠の朝廷」と称された古代日本の九州統治組織・大宰府が置かれたことで知られる太宰府市は、また日本三戒壇の一つがあった筑紫の観世音寺があることでも知られる。

その観世音寺の子院の一つである安養寺の跡地は、大宰府政庁跡の裏手にあり、現在では何も遺構は残っていないが、現在他所から移されてきたと言う二基の石塔がある。

武藤資頼と、元寇でモンゴル軍と戦い戦死したその子の武藤資能の墓と伝承されるが、もとよりこれは大宰府跡に建っていることから生じた後付であろう。

向かって左側の五輪塔が少弐氏の祖である武藤資頼の墓と言われ、資頼は鎌倉時代に筑前・豊前・肥前・対馬の守護として大宰府に下り、大宰少弐にも任じれたことからその子孫は後年少弐氏を称した。

五輪塔は凝灰岩の一石で造られており、水輪の形状から「隅切り五輪塔」と呼ばれるもので、同形の五輪塔は特に大分の国東半島に見られ、古い様式の石塔である。

この安養寺跡の五輪塔も、鎌倉時代中期頃の作と言われている。

なお、向かって右側の武藤資能の墓と言う宝篋印塔は、塔身が失われているが南北朝時代頃の作と思われる。


安養寺跡にほど近い観世音寺境内の北西には、玄昉の墓と伝承される陽刻宝篋印塔板碑がある。

玄昉は奈良時代の僧侶で、唐に留学して帰国後に聖武天皇に重用されるも後に失脚して大宰府に左遷され、その地で没したことから生じたこれまた後付の伝承であろう。

板碑は鎌倉時代の作と見られる。

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