中部地方の石造物㊼:十念寺五輪塔
名称:十念寺五輪塔
伝承など:なし
所在地:新潟県上越市五智 十念寺
上越市の十念寺は、行基によって奈良時代に創建されたと言う伝承を持ち、戦国時代には上杉謙信が川中島の戦いの過程で善光寺の本尊や宝物を越後に避難させた際に、それらをこの十念寺に安置したことから以降は「浜善光寺」(内陸の信濃善光寺に対し、沿岸に寺院があったため)と通称された。
境内に所在する二基の五輪塔は、当初から十念寺に伝わったものではなく、周辺の工事で出土したものを同寺に移設したものである。
二基とも同時期の作で、各部の特徴から鎌倉時代末期と推定される。
宮野尾五輪塔(「中部地方の石造物⑤」参照)や伝・恵信尼の墓(「中部地方の石造物⑰」参照)など、上越市内の鎌倉末期の五輪塔と同様、北陸によく見られる火輪と地輪の丈が高いと言う特徴を持つ。
なお、浜善光寺の東方、直江津港に近い琴平神社の一角にも、似た形式五輪塔がある。
こちらは乱積みの五輪塔であるが、二基ならぶ五輪塔のうち、向かって左側の塔は、やはり火輪の丈が高く、火輪・水輪と地輪は別石で揃っていないが、十念寺の五輪塔よりもやや下る南北朝時代の造立と思われる。
この五輪塔は安寿と厨子王の供養塔と通称され、中世の謡曲で森鴎外の小説の基にもなった「山椒大夫」の物語において、国守となった厨子王が母を迎えに佐渡に渡った場所が直江津とされることから、二基並んだ石塔を安寿と厨子王姉弟の供養塔に見立て、そのような伝承が生じたものと思われる(もとより「山椒大夫」の物語はフィクションであるので、五輪塔は安寿・厨子王とは無関係であろうが)。
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