北関東の石造物⑥:空恵寺宝塔群(白井長尾氏の墓所)

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名称:空恵寺宝塔群

伝承など:白井長尾氏歴代墓所

所在地:群馬県渋川市上白井 空恵寺


宿場町として知られる群馬県渋川市の白井は、室町時代から戦国時代にかけての白井城主で山内上杉氏の家宰として上野守護代を務めたこともあった白井長尾氏の領地である。

白井長尾氏は鎌倉長尾氏から分かれた家で、上杉謙信が出た越後長尾氏などと同族であるが、その成立については不明な点も多く、山内上杉氏の家宰を務めた長尾景仲以前の系譜に関してははっきりしない。

しかしながら、室町時代前期の応永年間頃には、すでに白井長尾氏は白井の地を所領としたようで、そのことをうかがわせる石塔群が白井の空恵寺にある。

同寺は白井長尾氏の菩提寺で、本堂の裏には白井長尾氏歴代当主の墓塔とされる石塔が建ち並ぶ。

大半の石塔が一度崩れてしまったものを組み直したのか乱積みであるが、室町時代から戦国時代にかけての石塔が並ぶ様は壮観であり、中には銘文を持つ石塔もあり、歴代当主のうち景仲(昌賢、八枚目)・景信(玉泉、五枚目手前)・景春(伊玄、六枚目右側)・景誠(明岩、六枚目左側)らの法号(括弧内がそれぞれの法号)を刻んだ石塔もある。

当主の墓塔以外にも、室町期の年号を刻む石塔が複数あり、このうち長尾円忠(鎌倉長尾氏の当主で長尾景仲の養父)の墓(四枚目)は応永三十一年銘を持つ(ただし銘文は追刻の可能性が高いとされている)。

他にも、文安三年銘を持つ石塔(「道興」の法号があり、これは空恵寺によると長尾景仲の三子・長尾景明のものという)や、「聖堂」(七枚目右側)「妙媼」(長尾景春の娘・白井局、七枚目左側)銘のある石塔もある。

銘文こそないが、この応永の石塔よりもさらに古いものと考えられるのが、当主の墓塔の列とは別に建つ墓所内で最も大型の宝塔(二枚目)で、これは墓所内で最古の石塔でかつ唯一完形のものである。

南北朝時代から室町時代前期の作と考えられ、長尾家の遠祖である鎌倉権五郎景政の供養塔と伝承されているが(あるいは鎌倉時代中期の人物で、長尾氏の氏祖とされている長尾景熈の墓ともされる)、伝承はさておくにしても、大きさと古さからするに空恵寺に墓所営むに際して長尾氏の氏祖塔として造立されたものであろう。

もしこの氏祖塔が南北朝時代のものだとすると、長尾氏が白井と関係を持ったの時期はもう少し遡るかも知れない。

鎌倉権五郎景政の供養塔を含む墓所内の大半の石塔は、宝塔の中でも「須弥壇式宝塔」と研究者には呼ばれ、主として南北朝時代から室町時代にかけて埼玉県北部から群馬県内で造られた特殊形式の石塔である(秩父周辺では戦国期まで作例があり、数は少ないが江戸期にも造立されている)。

墓所内で唯一宝塔ではなく宝篋印塔の形式を取るのが、関東管領上杉憲実に仕え、「東国不双の案者(知恵者)」と呼ばれて室町時代中期の関東の政局をリードした長尾景仲(昌賢)の墓(八枚目)である。

他の当主の石塔もそうであるが、基礎部分に没年と法号を刻み(九枚目)、各パーツの年代は概ね没年と合致するものの、石塔自体は複数の宝篋印塔の乱積みで当初のままの状態ではない。

他の当主の墓が始祖塔と同形の須弥壇式宝塔である中で、景仲の墓だけ宝篋印塔と言うのは不自然であり、石塔が乱積みと言うことと考え合わせると、あるいは元々景仲の墓塔も須弥壇式宝塔だったのかも知れない。


・2023年9月26日追記

改めて空恵寺の長尾氏墓所を訪れる機会があり、その際に気づいたことがあったために追記しておく。

この墓所内にある須弥壇式宝塔は、ほとんどが乱積みであるが、構成しているパーツにもかなりの年代差があって、古いものは室町時代中期まで遡るが、江戸時代の補作と思われるものもあり、中にはすべて江戸時代に造立されたと思われるものもあった。

また、上記記事では唯一の完形と記した伝・鎌倉権五郎の墓も、実際には一部のパーツが別石である。

白井長尾氏に関する近年の研究成果も加味しつつ、この墓所の石塔、およびその銘文については、いづれ改めて考察したいと考えている(いつになるかわからないけど)。


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