雑記:大垣城と墨俣城周辺

JR大垣駅から徒歩数分の所にある大垣城は、戦前までは天守閣が現存していたが戦災で焼失し、現在は鉄筋コンクリートで復元されている。

大垣城の天守閣は珍しい四層(四層は「死相」に通じるために好まれなかったと言う)である(二枚目の手前に写っているのは大垣藩主戸田家初代・戸田氏鉄の銅像)。

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大垣市の中心部からから東方へ五、六キロメートル進んだ墨俣町には、豊臣秀吉の出世譚・墨俣の一夜城で知られる墨俣城の伝説(近年の研究では墨俣築城の逸話自体が後世の虚構であるとされる)をモチーフにした模擬天守が建っている。

もとより当時にはこのような天守閣はなかったが、それなりに年月が経っているせいか風景に馴染んでいる。

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また、同じ墨俣町には、この地で平家軍と戦い戦死した義円(源義朝の子で幼名は乙若、源義経の同母兄)の墓と伝承される乱積みの五輪塔もある。

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墨俣は室町時代後期には、美濃守護代斎藤利藤の居城であった。

応仁の乱以降の美濃国の実権をめぐる抗争は複雑で、実質的守護代で応仁の乱では西軍の武将として活躍した実力者・斎藤妙椿の死後は、その甥(兄の斎藤利永の子)で守護代の斎藤利藤と、妙椿の養子となった利藤の実弟・斎藤妙純(利国)の間で「美濃文明の乱」と呼ばれる内乱が勃発した。

この乱は最終的には妙純の勝利に終わり、権力争いに敗れた利藤は失意の内に世を去っている。

利藤の墓は墨俣の明台寺にあり(上記墨俣城と義円の墓の間くらいにある)、養子であった斎藤利為(ただし内乱では斎藤妙純に味方している)が造立したものと言う。

墓地内にある二基並ぶ小型の五輪塔の向かって右側(下の写真二枚目)がそれで、地輪には彼の没年である明応七年銘があり、形式も戦国時代初期のもので合致する。

左側の五輪塔も、利藤の墓よりもやや小ぶりではあるが同時期のもので、こちらは永正二年と言う銘文があり、利藤の子・斎藤利為の墓である。

また境内には土岐悪五郎(足利尊氏・義詮・義満に仕え功績のあった土岐頼康の弟・康貞のこと)の墓と伝承される五輪塔もあり、乱積みのようにも思えるが、室町時代の五輪塔である。

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