北関東の石造物②:金蔵寺宝篋印塔(渋川義季供養塔?)
名称:金蔵寺宝篋印塔
伝承など:渋川義季、もしくは里見義秀、世良田義季供養塔
所在地:群馬県渋川市金井 金蔵寺墓地
群馬県渋川市に曰くのある宝篋印塔が存在する。
金井の金蔵寺墓地内にある宝篋印塔で、南北朝時代の康永二年(北朝年号)銘がある。
破損が激しいのでわかりにくいかも知れないが、南北朝時代から室町時代にかけて埼玉北部と群馬でのみ見られる(一部戦国期の作例があるが)特殊な形式の宝篋印塔である。
基礎と塔身の間に中台を置き、須弥壇に見立てている所から「須弥壇式宝篋印塔」と呼ばれるが、関東管領上杉氏の影響下にあった地域で見られるため、上杉氏との関連も指摘されている。
この石塔の基礎部には銘文があり、写真だとわかりにくいかも知れないが、右から二行目に被供養者として「源義秀」ないしは「源義季」と読める人名が刻まれている。
この人名をめぐっては古くから議論があり、「義秀」派は新田一族の里見義秀、「義季」派は新田一族の世良田義季(徳川義季とも言い、徳川家康の先祖とされる人物)、あるいは渋川義季の供養塔と見る。
元々この宝篋印塔は現在よりもやや南に位置する下金井の薬師堂にあり、渋川市の中心部に近い場所にあったと言う。
渋川は足利一族の中でも本家に準ずる高い格式で遇されていた渋川氏の本貫地であり、宝篋印塔があった場所や北朝年号を用いている点などからするに(ただし、東国においてはその集団が南朝・北朝どちらに属していたかにかかわらず、北朝年号を用いる例が多い)、新田系の氏族が造立したと考えるよりも、渋川氏によって造立されたと考える方が自然だと思われる。
渋川義季は建武二年に、所謂「中先代の乱」に際して武蔵女影原の戦いで戦死した人物であり(ちなみに、彼の姉妹は足利直義の夫人で、娘は二代将軍足利義詮の正室であるから、当時の渋川氏は足利将軍家と密接に関わりを持っていた)、康永二年は義季の死から八年後であり、供養塔を建てるタイミングとしても自然であるから、やはり渋川氏の手によって本貫地に造立された義季の供養塔と見るべきであろう。
何よりも、この特殊な石塔の形式が、その後上杉氏や長尾氏と言った足利系の一族の間で好んで採用されていることが、足利氏や上杉氏と関わりを持っていた渋川氏ゆかりの石塔であることを物語っているように思える。
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