近畿地方の石造物⑬:高野山奥の院石田三成逆修塔他五輪塔群/奥の院宝篋印塔
名称:高野山奥の院石田三成逆修塔
伝承など:石田三成の逆修塔
所在地:和歌山県伊都郡高野町 高野山奥の院
高野山の奥の院に建ち並ぶ大名家や戦国大名の墓石は、大半が五輪塔であるため、例外的に奥の院の石塔だけは通常と異なり、被供養者の名前を名称としたい。
まず最初に紹介するのが、石田三成の墓と称される五輪塔である。
奥の院の標柱には墓所とあるが、厳密には逆修塔と呼ばれるもので、生前供養のために建てられる石塔であり、三成自身が造立したものである。
地輪に天正十八年銘があり、これが逆修が行われた年である。
江戸時代以降に諸大名の墓所が営まれるようになる以前は、この三成逆修塔が奥の院で最大の五輪塔であったと言う。
その江戸時代以降に奥の院に造立された近世大名家の墓所群は、その大半が五輪塔で構成されているが、大身の大名家の墓石はその大きさから一際目を引かれる。
墓石群の中で最も大型で、「一番石」と通称されているのが、徳川秀忠夫人の崇源院の墓で、これは崇源院の子で三代将軍家光の弟、「駿河大納言」の通称で知られる徳川忠長が造立したものである。
二番目に大型の「二番石」は、広島藩浅野家墓所内にある正清院の五輪塔で、正清院は紀州和歌山から広島に移封された最初の藩主である浅野長晟の夫人で、徳川家康の娘でもある。
三番目に大型の「三番石」は、加賀藩初代藩主前田利長の五輪塔であり、利長は言わずと知れた前田利家の長子で加賀百万石の基礎を築いた人物である。
この他にも、奥の院には多くの大型の五輪塔があるが、仙台藩初代藩主で独眼竜の異名でも知られる伊達政宗の墓も、また一際大きなものである。
この五輪塔は政宗の一周忌にその子の忠宗が造立したもので、仙台にある政宗の霊廟の瑞鳳殿が戦災で焼失してしまったため、現存する唯一の政宗の墓塔である。
このように高野山奥の院の石塔群は、大名家の墓所が大半を占めることから近世の石塔が多く、町石塔婆や弘法大師廟所内の石塔を除けば、中世にまで遡る石塔は少ない。
その少ない中世石塔のうちの一基が、奥の院の入口近くに建つ宝篋印塔である。
南北朝時代から室町時代の作と推定され、完形でありまた周囲に建つ墓石が戦後に建てられた新しいものばかりであることからも一際目を引く。
これがいかなる来歴の石塔であるかはわからないが、その洗練された佇まいからするに、しかるべき身分の武士か僧侶の墓塔、あるいは供養塔であろうか。
奥の院の墓石群の中でも印象深い石塔の一つである。
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