北関東の石造物㊾:灰塚五輪塔


名称:灰塚五輪塔

伝承など:伊達念西供養塔?

所在地:茨城県筑西市灰塚


筑西市灰塚の共同墓地内に建つ古様の五輪塔は、来歴や伝承などは一切ないが、近代以降の墓石ばかりの墓地内で異様な存在感を放っている。

この石塔の存在は従来ほとんど知られていなかったが、近年鶴見貞雄氏によって紹介され、俄に注目を集めている。

地輪と水輪に破損に伴う修復の後が見られるが、ほぼ完形と言って良く、その形式から鎌倉時代のかなり早い時期の作と推定される。

注目すべきは火輪の上部に露盤を持つことであり、これは関東の五輪塔には類例がなく、平泉を中心とした東北地方の初期五輪塔に見られる特徴である。

灰塚にほど近い中館の観音寺周辺は、伊佐氏の居城跡に比定されており(三枚目)、同市内の泉(灰塚と中館の中間くらいに位置する)等覚院跡にも伊佐氏の造立によるものと推定される鎌倉時代後期の五輪塔(伝・藤原高房供養塔「北関東の石造物⑮」参照)があるため、この五輪塔も伊佐氏が造立に関わっているのかも知れない。

伊佐氏の祖とされる藤原北家流の常陸入道念西は、後代の史料に登場する伊達氏の祖・伊達朝宗に比定されるが、伊達氏の系譜には不明な点が多く、はっきりしたことはわからない。

念西の俗名は『吾妻鏡』では「時長」とされ、近年の研究では念西は京都の下・中級貴族で、源頼朝が鎌倉に政権を樹立した前後に関東に下り、常陸の所領を基盤として御家人化した人物とされる。

念西は奥州合戦の功績により、伊達郡・信夫郡を与えられたために「伊達入道」と呼ばれ、長子の為宗が常陸の所領を継承して伊佐氏となり、次子の為重が奥州の所領を継承して伊達氏となった。

上述のように灰塚の五輪塔は東北地方にある初期五輪塔と共通する点を持つため、伊達為重が東北から五輪塔と言う新しい形式を持ち込んだ可能性があり、だとすればこの石塔は為宗・為重兄弟による父・念西の供養塔かも知れない。

あくまで現在五輪塔が建つ場所と形式からの推測であるが、造立者や被供養者が誰であれ、形式からするにこの五輪塔は関東の五輪塔の初見例の可能性が高く、極めて貴重な石塔と言える。


なお、この石塔に関する情報は、2022年12月に群馬県立歴史博物館で行われた「群馬県立歴史博物館友の会」講演会での磯部淳一氏の講演「石塔からみた中世前期関東の地域性」による所が大きい。

氏の見解は現状ではこの講演で披露されたのみで、論文など文章化はされていないため、特に出所を明記する次第である。


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