ピンクの風景

 昼過ぎ頃まで寝ていた雅志は、ラーメンと昨夜の残りのごはんとで朝食兼昼食をすますと、日曜の午後の町へとブラブラ歩を進めた。
 駅前にいくつかある喫茶店の中で、土日でも比較的すいている店のドアをあける。店の名は、喫茶オリエント。
 雅志がいつも指定席のようにしている隅の席は、三十代位の肉体労働者風の男に占拠されていた。その他の席はきれいにあいている。
 雅志は指定席の隣にある四人席の、店内を見渡せる場所に座を占めた。
 正面に一辺五十センチくらいの幅の四角形の鏡の柱が立っていて、その三面をカウンター席が取り囲んでいる。もう一面は戸外に面して張ってあるガラス窓に接している。
 雅志は何気なく手前の面の鏡に映る自分の姿を眺めている。
 自分の顔はなんて太って頼りなさそうなんだろうと、少し情けない気分になってくる。
 さらに、明日からまた始まる変わりばえのしない過酷な労働のことに思いを馳せると、深い憂愁のため息が漏れる。
 自分の顔が見える席は精神衛生上よくない、ちょっと席を移動しようと腰を浮かしかけた時・・・
 あれ? と目を疑った。
 鏡に映っていたはずの太って情けない自分の姿が消えて、鏡の表面がいつの間にかピンク色に染まっている。
 隣の肉体労働者はたばこを吸ってぼんやり前を見ている。この異変に気付いている様子はない。まさに今鏡の前を通り過ぎようとしている若い女店員も、何食わぬ顔をしてレジまで歩いて行く。
 ピンク色の鏡の中に女性の後姿の影が刻まれて行く。鏡のピンク色が女性の影の中に段段と吸い込まれて、ピンクのワンピースを着た女性の後姿が現われる。
 鏡の中にいたピンクのワンピースの女は後ずさって鏡から抜け出る。そしてカウンターの上に立つ。
 まさかここまで来て誰も気付かないなんてことはないだろうと、雅志は肉体労働者を再び見やるが、彼は伝票を手にして立ち上がろうとしている。
 驚いた表情は影ほども見えない。
「三百五十円です」「四百円おあずかりします」「五十円お返しします」「ありがとうございました」
 女店員と肉体労働者は日常通りのお金のやりとりをしている。
 一方雅志はまさに日常からはるかかなたに離れた所に飛んでいた。
 ピンクのワンピースの女はカウンターの上でゆっくり体の向きを変える。
 背筋がきっちり伸びていて、それでいて柔らかな身のこなしをする。
 頬が少し角張っていて、鼻筋がピンと通っているが、目の表情がとてもなめらかで変幻自在だ。泳ぐようでいて吸いつくような視線が、雅志の方へ漂ってくる。
 長い髪とピンクのスカートをひらめかせて、女はカウンターからひらりと降りる。
 女店員は隅の席のコップ類を片づけている。花柄のトレイの上に全て乗せて向き直った時、こちらに近づくピンクの女と真向かいになったにもかかわらず、彼女はあまりにも平然と厨房の方へ下がって行く。
 見えるのはぼくだけなんだ、と雅志はまさしく驚愕のとりこになった。こんな昼間に幽霊なのか?
 雅志の方へ向かって静かに歩み寄る女。
 知的な神経が全身に張り巡らされていると同時に、しなやかな色気の漂う歩き方だった。
 雅志の右斜め前に止まると、女はピンクのワンピースの肩を右左とゆっくり外し始めた。
 明らかに脱ぐつもりのようだ。
「やめてくれ!」と雅志は驚いて跳ね上がる。すると何だか体が軽い感じがする。妙な予感がして後ろを振り返ると、まさしく自分自身が席に座ってコーヒーを飲んでいる。
 あの自分はなんだ? そしてこの自分もなんだ?
 女の体からハラリとピンクのワンピースが落ちた。女は全裸だった。
 そして雅志もまた全裸だった。
 女の手が伸びて、雅志の欲望の塊がみるみるうちに固く大きくなった。
 雅志は立ったまま女と交合を始めた。

 見ると、いつの間にか店内に大勢の裸の男女がひしめき合い、全員思い思いの姿勢で交合をしていた。
 ピンクの声とピンクの香りが漂い、うねり狂う、喫茶オリエント。

 雅志は至福の絶頂にまで昇りつめ、ありったけの精を放った。

 ハッと気付くと、雅志はさっきの席に空になったアイスコーヒーを前に座っていた。ちゃんと服を着ている。
 女はもういない。そしてあんなに沢山いた全裸の男女達も霧のように消えていた。
 中年過ぎの頭の禿げた男と交合していたはずの女店員も、黒い服に白いエプロンの制服を着て、新しく入って来た客の注文をとっている。

 さっきのエロチックな乱痴気騒ぎは何だったんだ? 何故さっき自分がもう一人いたんだ?
 雅志の疑問と当惑の目が、右手の薬指に釘付けになった。
 あの女が着ていたピンクのワンピースの布の一切れが指に巻かれていたのだ。
 雅志はそれをほどいてテーブルに広げてみる。そこにはボールペンの女文字でこう書かれてあった。

    幻こそ現実
    現実もまた幻

以上

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