
一橋大学(1998年)
第1問
つぎのグラフは、イギリス(イングランドおよびウェールズ)とドイツの人口の歴史的変化の推計値を表にしたものである。両国の人口変動を比較して、下記の問いに答えなさい。

問1 両国の人口変動で最大の違いは何か、またこの違いが生じたのは、両国の政治・社会状況のいかなる違いによるものか、説明しなさい。(200字以内)
解答のポイント
①最大の違いは1600年代の人口変動
②ドイツでは三十年戦争が起こり、新旧諸侯の争いに諸外国が介入
③戦争の主力である傭兵が農村を略奪し、農民を虐殺したため人口が激減
④この時期、ハンザ同盟が衰退し、ドイツ国内の経済活動も縮小に向かう
⑤イギリスではピューリタン革命が起こったが諸外国の介入がなかった
⑥名誉革命もオランダから国王を迎えた無血革命だったため、庶民の犠牲者の数は少なく、人口変動が見られない
解答例
問1最大の違いは1600年代の人口変動である。ドイツでは三十年戦争が起こり新旧諸侯の争いに諸外国が介入、戦争の主力である傭兵が農村を略奪し、農民を虐殺したため人口が激減。この時期ハンザ同盟も衰退したため、ドイツ国内の経済活動も縮小に向かった。イギリスではピューリタン革命が起こったが諸外国の介入はなく、名誉革命もオランダから国王を迎えた無血革命だったため、庶民の犠牲者の数は少なく、人口変動が見られなかった。(200字)
※「違い」を書きなさいと言っているので、「共通点」である「17世紀の危機」のことは書けません。
問2 16世紀には両国とも人口が増加しているが、その経済的原因について述べなさい。(200字以内)
解答のポイント
①両国に共通する原因は、大航海時代が到来し、ヨーロッパが経済的な好況期に入ったこと②価格革命により封建領主層が没落し、農民の所得が向上
③金利の低下により商工業者の所得も向上
④新大陸産のトウモロコシの栽培も普及
⑤イギリスでは毛織物工業が発展し、ヨーマンやジェントリといった新興の階級が台頭
⑥エルベ川以東のドイツではグーツヘルシャフトにより西欧向けの穀物輸出が拡大し、人口の増大を支えた
解答例
問2両国に共通する原因は、大航海時代が到来し、ヨーロッパが経済的な好況期に入ったことである。価格革命により封建領主層が没落し、農民の所得が向上、金利の低下により商工業者の所得も向上した。新大陸産のトウモロコシの栽培も普及した。イギリスでは毛織物工業が発展し、ヨーマンやジェントリといった新興の階級が台頭。エルベ川以東のドイツではグーツヘルシャフトにより西欧向けの穀物輸出が拡大し、人口の増大を支えた。(200字)
※じゃがいもの栽培が普及するのは18世紀になってからです。16世紀末から17世紀にかけては植物学者による菜園栽培が主でした。栽培が普及しなかったのは、その形状から「悪魔の作物」として農民たちから嫌われていたからです。18世紀中頃、プロイセンのフリードリヒ2世が栽培を奨励したことが有名で、その頃からヨーロッパで広く栽培されるようになりました。やせた土地でも育つじゃがいもは18~19世紀の人口増大を支えましたが、19世紀中頃にはアイルランドでじゃがいも飢饉を引き起こします。
第2問
次の文章は、フランスの評論家ダニエル・アレヴィ(1872~1962)によるものです。ここで語られていることをふまえて、1870年から19世紀末に至るまでのフランスの政治状況を、以下の用語を使って説明しなさい。なお、用語を最初に使った箇所には下線を付すこと。(400字)
「1871年6月--フランス人は何を感じていたのだろうか。彼らの国は国境からサン=ドニやヴァンセンヌに至までドイツ人に占領されていて、傷つけられ辱められた首都には血と煙の臭いがまだ漂っていた。また、リヨン、マルセイユ、トゥールーズ、ボルドー、リモージュ、ペリグーは依然として武装しており、おそらくは新たな一触即発の可能性を抱えていたのである。悲しみ、沈黙、茫然自失の状態がいたる所で支配していた。力によって獲得されたこの秩序を、いかにして定着させ、安定したものにするか。すべてが不確定で移ろいやすく、それが人々の恐怖を生み出していた。そして不安と疲労感の情が混ざり合っていた。」
ナポレオン3世 ティエール アルザス・ロレーヌ割譲 労働運動 ドレフュス事件
解答のポイント
①普仏戦争でナポレオン3世がセダンで捕虜となって敗北し、第二帝政が崩壊
②パリ占領を受けて、臨時国防政府はドイツと休戦条約を締結
③ティエールを首班とする臨時政府がアルザス・ロレーヌ割譲を認める仮講和
④和平に不満のあるパリ市民はパリ=コミューンを組織
⑤史上初の労働者による社会主義政権を樹立
⑥臨時政府はドイツと結び、パリ=コミューンを鎮圧
⑦その後、第三共和政が成立するが、反ドイツ感情を背景に右派軍人が政府転覆を計画したが失敗に終わったブーランジェ事件が発生
⑧また、ユダヤ系軍人のスパイ冤罪容疑をきっかけとしたドレフュス事件が勃発するなど、不安定な状態が続いた。
⑨労働者による社会主義運動も高揚し、1889年にはパリで第二インターナショナルが結成
⑩第三共和政下の議会は小党分立であり、労働者は議会政治による社会主義実現が困難と判断したため、労働運動は直接行動のサンディカリズムの傾向が強かった。
解答例
普仏戦争でナポレオン3世がセダンで捕虜になって敗北し、第二帝政が崩壊した。パリ占領を受けて、臨時国防政府はドイツと休戦条約を締結した。ティエールを首班とする臨時政府がアルザス・ロレーヌ割譲を認める仮講和をすると、和平に不満のあるパリ市民はパリ=コミューンを組織し、史上初の労働者による社会主義政権を樹立した。臨時政府はドイツと結び、パリ=コミューンを鎮圧した。その後、第三共和政が成立するが、反ドイツ感情を背景に右派軍人が政府転覆を計画したが失敗に終わったブーランジェ事件や、ユダヤ系軍人のスパイ冤罪容疑をきっかけとしたドレフュス事件が勃発するなど、不安定な状態が続いた。労働者による社会主義運動も高揚し、1889年にはパリで第二インターナショナルが結成された。第三共和政下の議会は小党分立であり、労働者は議会政治による社会主義実現が困難と判断したため、労働運動は直接行動のサンディカリズムの傾向が強かった。(400字)
第3問
下記の問(ア)(イ)に答えなさい。
(ア)17世紀前半、女真族が建てた後金は明軍を破って中国東北を支配し、国号を清と改めた。この清が1644年に北京に都を移してから、さまざまな対抗勢力をおさえて、中国本部の全域に対する支配を確立するまでには、およそ40年を要した。1644年以降における清の中国支配の確立の過程について、簡潔に説明しなさい。(200字以内)
解答のポイント
①李自成の乱で明朝が滅亡、明の将軍・呉三桂は女真族の清に降伏して中国征服に協力
②清朝は征服に功績のあった呉三桂をはじめ、3人の武将を雲南・広東・福建の藩王に任命
③康熙帝は、三藩の勢力増大を恐れ、この撤廃により直轄支配を図る
④これに反発して三藩の乱が起こる
⑤台湾の鄭氏もこれに呼応し、反清復明を唱えて清朝に抵抗
⑥清はこれらの動きを制圧し、女真族による中国本土の一元的支配が完成
解答例
(ア)李自成の乱で明朝が滅亡すると、明の将軍・呉三桂は清に降伏し、中国征服に協力した。清朝は功績のあった呉三桂をはじめ、3人の武将を雲南・広東・福建の藩王に任命した。康熙帝は三藩の勢力増大を恐れ、この撤廃により直轄支配を図るが、反発して三藩の乱が発生した。また、台湾の鄭氏もこれに呼応し、反清復明を唱えて清朝に抵抗した。清はこれらの動きを制圧。これにより、女真族による中国本土の一元的支配が完成した。(200字)
(イ)17世紀以来続いてきた朝鮮と日本、清との外交関係は、19世紀後半に大きく変化した。19世紀後半にどのように変化したのかを、簡潔に説明しなさい。その際、下記の語句を必ず使用し(重複してもよい)、その語句に下線を付すこと。(200字以内)
藩属国 朝鮮国王 下関条約
解答のポイント
1.朝鮮と日本の関係
①(変化前)朝鮮国王は江戸幕府に朝鮮通信使を派遣し、対等な外交関係
②(変化後)1875年江華島事件をきっかけに不平等条約である日朝修好条規を締結
2.朝鮮と清の外交関係
③(変化前)清朝の征服により藩属国に
④(変化後)1895年下関条約で清朝の宗主下から独立
3.日本と清の外交関係
⑤(変化前)江戸幕府は鎖国時代、中国とは交易を維持
⑥(変化後)a.1871年日清修好条規で対等な外交関係
b.日清戦争後の下関条約では台湾や澎湖諸島を奪って、賠償金を課す
解答例
(イ)日朝関係。17世紀以来、朝鮮国王は江戸幕府に朝鮮通信使を派遣し、対等な外交関係だったが、1875年江華島事件をきっかけに不平等条約である日朝修好条規を締結した。清と朝鮮の関係。17世紀、清朝の征服により朝鮮は藩属国となるが、1895年下関条約で清朝の宗主下から独立した。日清関係。江戸幕府は鎖国時代、中国とは交易を維持。1871年日清修好条規で対等な外交関係となり、日清戦争後の下関条約では台湾や澎湖諸島を奪って、賠償金を課した。(200字)