
一橋大学(2007年)
第1問
カール大帝とその後継者ルートヴィヒ1世の死後、フランク王国は分裂の道を歩んだ。その過程で東西王国のいずれにおいてもカロリング家の血統に属さない国王が現れ、新しい独自の王国が形成された。王国は後にさらに発展し、西欧中世世界の中心となっていった。とくに東側の王国は神聖ローマ帝国の中核部を構成した。フランク王国の分裂と東側の王国の成立と発展の過程を、分裂に関わる二つの条約の締結から神聖ローマ帝国の初代皇帝となる国王の選出にいたるまでの期間について記しなさい。その際、二つの条約と以下の語句を必ず使用し、その条約名と語句に下線を引きなさい。語句を用いる順序は自由である。(400字以内)
マジャール人 ロートリンゲン ザクセン朝 ハインリヒ1世
テーマ
1.フランク王国の分裂と東側の王国の成立と発展の過程を…
2.分裂に関わる二つの条約の締結から神聖ローマ帝国の初代皇帝となる国王の選出にいたるまでの期間について記しなさい。
解答のポイント
①843年のヴェルダン条約でカール大帝の孫たちによってフランク王国は分割
②ルートヴィヒ2世が東フランク、シャルル2世が西フランク、ロタール1世が中部フランクを獲得
③870年のメルセン条約で中部フランクのロートリンゲンを東西フランク王国で分割
④これにより現在のフランス、ドイツ、イタリアの原型が成立
⑤東フランク王国では10世紀初めにカロリング朝が断絶して選挙王政に移行
⑥やがてハインリヒ1世が諸侯の推挙を受けて即位し、ザクセン朝を開く
⑦ノルマン人、スラヴ人、マジャール人などの侵入を撃退
⑧ロートリンゲンを征服し、その全域を併合
⑨第2代オットー1世はレヒフェルトの戦いでマジャール人の侵入を撃退
⑩北イタリアに遠征し、教皇領の防衛に成功
⑪教皇ヨハネス12世から西欧キリスト教世界の守護者としてローマ皇帝位を授かり、神聖ローマ帝国が成立
解答例
843年のヴェルダン条約でカール大帝の孫たちによってフランク王国は分割された。その結果、ルートヴィヒ2世が東フランク、シャルル2世が西フランク、ロタール1世が中部フランクを獲得した。その後、870年のメルセン条約で中部フランクのロートリンゲンを東西フランク王国で分割した。これにより現在のフランス、ドイツ、イタリアの原型が成立した。東フランク王国では10世紀初めにカロリング朝が断絶して選挙王政に移行した。やがてハインリヒ1世が諸侯たちの推挙を受けて即位し、ザクセン朝を開いた。ハインリヒ1世はノルマン人、スラヴ人、マジャール人などの侵入を撃退した。さらにロートリンゲンを征服し、その全域を併合した。第2代オットー1世はレヒフェルトの戦いでマジャール人の侵入を撃退。北イタリアに遠征し、教皇領の防衛に成功した功績により教皇ヨハネス12世から西欧キリスト教世界の守護者としてローマ皇帝位を授かり、神聖ローマ帝国が成立した。(400字)
問題文の指示が悪いので、混乱を招いてしまう問題です。
「神聖ローマ帝国の初代皇帝となる国王の選出まで」というのをどう読むかですが、「国王の選出まで」の方に重きを置いて読んだ場合、オットー1世が「皇帝」ではなく「国王」になるまでですので、レヒフェルトの戦いのことや、ヨハネス 12 世による戴冠のことは書けなくなります。
「初代皇帝となる国王の選出まで」を「国王オットー1世」が神聖ローマ帝国の初代「皇帝」 となるまで、と読んだ場合、レヒフェルトの戦いやヨハネス 12 世による戴冠のことを書く ことができます。
青本は前者(つまりオットーが「国王」になるまで)で書いていますが、かなり無理があります。
おそらくは出題者は後者(つまりオットー1世が「皇帝」になるまで)を意図としています。
もう1つ大変な指定用語が、「ロートリンゲン」(ドイツ語の地名。フランス語ではロレーヌのことです)です。これも受験生の知識をはるかにこえています。
ここでいうロートリンゲンは、「現在のロレーヌ地方」を指す場合と、「中部フランク全域」を指す場合があり、各社の解答例でもこの2つの用途が混在しているため、混乱を招いています。(ロートリンゲンの地名はカール大帝のひ孫、ロタール2世に由来します。)
赤本や東進の解答例は、メルセン条約でロートリンゲンが東フランクに帰属したと書いていますが、これは「現在のロレーヌ地方」のことを指しています。
青本はロートリンゲンを「中部フランク全域」という意味で使っています。メルセン条約でロートリンゲンを東西に分割し、その後、ザクセン朝の初代国王ハインリヒ1世のときに東フランクに帰属することになったという書き方です。
どちらの書き方でも良いです。
受験生の知識は越えていますが、過去問で出題されていますので、ここまではおさえてお く必要があります。
独仏対立の背景であるアルザス・ロレーヌ問題の起源であり、この帰属は現在のヨーロッパ統合まで続くことになるので、高校の世界史の範囲はこえていますが、一橋大受験生にとっては重要な知識です。
第2問
18世紀後半のフランスは、それまでの絶対王政がゆきづまり、不安定な時代を迎えていたとされる。とりわけルイ16世(在位1774~92年)時代は多くの社会的矛盾や財政難が顕著となる時期であり、政府はそうした事態への対応を迫られていた。ルイ16世の即位からフランス革命勃発に至るまでの期間を取り上げ、その間、どういった問題が生じていたかを説明したうえで、政府はそれに対処するためにどのような改革を行おうとしたのか、そして、そうした改革はなぜ挫折したのかを述べなさい。(400字以内)
テーマ
1.ルイ16世の即位からフランス革命勃発に至るまでの期間を取り上げる
2.その間、どういった問題が生じていたか
3.政府はそれに対処するためにどのような改革を行おうとしたのか
4.そして、そうした改革はなぜ挫折したのか
解答のポイント
①フランスは、アンシャン=レジームの下、聖職者・貴族が免税特権を有し、平民は重税に苦しむ
②ルイ16世が即位した後、フランスはアメリカ独立戦争に参戦し、イギリスに勝利するがその戦費により財政難が深刻化
③1786年に英仏通商条約を締結し、相互に関税を引き下げると、産業革命の進んだイギリス商品が大量に流入してフランス産業が大打撃
④ルイ16世は財務総監に重農主義者テュルゴーや銀行家ネッケルを起用し、特権身分への課税を図るが失敗
⑤貴族たちは高等法院の王令審査権により改革に抵抗
⑥財務総監に任用されたカロンヌの名士会も失敗に終わった
⑦1789年には三部会が開催されるが、身分別議決方式か個人別議決方式かをめぐって紛糾
⑧第三身分の議員を中心に国民議会が結成され、球戯場の誓いで憲法制定まで議会を解散しないことを誓った
⑨ルイ16世が国民議会の弾圧を図ると、パリ市民は圧政の象徴だったバスティーユを襲撃し、革命が勃発した
解答例
フランスは、アンシャン=レジームの下、聖職者・貴族が免税特権を有し、平民は重税に苦しんでいた。ルイ16世が即位した後、フランスはアメリカ独立戦争に参戦し、イギリスに勝利するがその戦費により財政難が深刻化。1786年に英仏通商条約を締結し、相互に関税を引き下げると、産業革命の進んだイギリス商品が大量に流入してフランス産業が大打撃を受けた。ルイ16世は財務総監に重農主義者テュルゴーや銀行家ネッケルを起用し、特権身分への課税を図るが失敗。貴族たちは高等法院の王令審査権により改革に抵抗した。また、財務総監に任用されたカロンヌの名士会も失敗に終わった。1789年には三部会が開催されるが、身分別議決方式か個人別議決方式かをめぐって紛糾。第三身分の議員を中心に国民議会が結成され、球戯場の誓いで憲法制定まで議会を解散しないことを誓った。ルイ16世が国民議会の弾圧を図ると、パリ市民は圧政の象徴だったバスティーユを襲撃し、革命が勃発した。(400字)
第3問
次の文章を読んで、問いに答えなさい。
「[ A ]は1860年代に内陸諸省にたいする支配を失ったあとは戦闘を沿海地域に拡大してさらなる高揚を示した。杭州・寧波・蘇州・上海が占領された。……[ A ]との闘いの最後の数年、文官出身の指揮官たちは西洋製の火器や汽船に感銘を深くした。そのため[A]の鎮圧のあと総督となった曾国藩・李鴻章・左宗棠の下で機器局や船政局(造船所)が南部のいくつかの都市で作られた。機器は海外から購入し、技師も外国から雇った。「対外関係が悪化した」1870年代にもこの傾向が続いた。造船会社が組織され、10代の留学生の一団が酉学を学ぶためにアメリカに到着した。華北で炭鉱が開かれ、電信が主要都市を結んだ。こうした一連の改革の動きは[ B ]と呼ぱれた。……その後、中国の立て続けの「外交上の失敗」は[ B ]をまずいものと印象づけ、そこに費やされた貴重な時間を無駄にしたかのように思わせた。しかし、中国近代史において、この運動は中国が経験することになる長期にわたる「失敗」の最初のものにすぎなかった。この一連の出来事に積極的な観点が与えられるのは最近になってからのことである。歴史の奥深さをもってすれば、これらは一見失敗であるかのようにみえるが、実は巨大な革命に向かう必要な一歩だったとみることができる。」
(黄仁宇著、山本英史訳『中国 マクロヒストリー』に基づき、問題作成のため、文章の省略・改変を行った。)
問1 空欄[A]に当てはまる語句を記し、次に、その鎮圧に曾国藩・李鴻章・左宗棠がどのような役割を果たしたのか、具体的に述べなさい。(問題番号の記入を含め、100字以内)
解答のポイント
①太平天国
②清朝正規軍である八旗が敗北を重ね、弱体ぶりが露呈
③漢人の高級官僚や地主が郷里で郷勇と称される義勇軍を組織
④中でも曾国藩の湘軍、李鴻章の淮軍、左宗棠の楚軍が反乱鎮圧に活躍
解答例
問1太平天国。清朝正規軍である八旗が敗北を重ね、弱体ぶりを露呈する中、漢人の高級官僚や地主が郷里で郷勇と称される義勇軍を組織した。中でも曾国藩の湘軍、李鴻章の淮軍、左宗棠の楚軍が反乱の鎮圧に活躍した。(100字)
問2 空欄[B]に当てはまる語句を記し、次に、こうした一連の改革を推進した人たちのとった基本的な立場・主張がどのようなものであったか、述べなさい。(問題番号の記入を含め、100字以内)
解答のポイント
①洋務運動
②運動の基本的な立場・主張は中体西用
③儒学をはじめとした中国の伝統を基礎としながら西洋の技術を利用して近代化
④皇帝専制政治の存続を目的としたため、政治改革には及ばず
解答例
問2洋務運動。運動の基本的な立場・主張は中体西用で、儒学をはじめとした中国の伝統を基礎としながら西洋の技術を利用して近代化を図るものだが、皇帝専制政治の存続を目的としたため、政治改革には及ばなかった。
問3 1870~80年代における清朝の対外関係を、対ロシア、対フランスの場合について、具体的に述べなさい。(問題番号の記入を含め、200字以内)
解答のポイント
1.対ロシア
①新疆でイスラーム教徒の反乱に乗じてヤークーブ=ベクがカシュガル=ハン国を建国
②露は居留民保護を理由にイリ地方に出兵
③清の平定後も、露はイリ地方を占領し続けたため清と紛争が発生
④イリ条約で露に通商上の特権を与え、領土の大半を取り返した
2.対フランス
⑤仏がユエ条約でベトナムを保護国化
⑥清はベトナムに対する宗主権を主張し、清仏戦争
⑦敗れた清は天津条約で保護国化を承認
解答例
問3対ロシア。新疆でイスラーム教徒の反乱に乗じてヤークーブ=ベクがカシュガル=ハン国を建国。露は居留民保護を理由にイリ地方に出兵。清の平定後も、露はイリ地方を占領し続けたため、清と紛争が発生。イリ条約で露に通商上の特権を与え、領土の大半を取り返した。対フランス。仏がユエ条約でベトナムを保護国化すると、清はベトナムに対する宗主権を主張したため、清仏戦争が発生、敗れた清は天津条約で保護国化を承認した。(200字)