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一橋大学(2011年)

第1問

次の文章は、フス戦争の直前に、フス派(フシーテン)によって作成された「プラハの4ヵ条」の一部である。この文章を読んで、問いに答えなさい。

 チェコの共同体と、神のもとに忠実なキリスト教徒たちは、……主イエス・キリストによって新約聖書のなかで命じられている以下の4ヵ条以外には何もなさず、求めず、自らのあらゆる財産および生死をかけて、可能な限り、神の加護を得て、これに反対するあらゆる人々に対抗しようとするものである。……
 4. 死に値する罪を犯した人々、とくに公然とあるいはそうでなくても神の法に背いた人々は、どのような身分であれ、しかるべき方法で、そのための職務を有する人々によって捕えられ、取り締まられるべきであり、……
 それらの罪とは、……聖職者においては、聖職売買の異端、そして洗礼や堅信、告解、神の体[聖体]や聖油[の付与]と結婚に際しての金銭の徴収、……死者のためのミサ、徹夜の祈祷、その他の祈祷などを有料として金銭を徴収すること、埋葬、教会の歌、鐘[を鳴らすこと]のための金銭の徴収、教会や礼拝堂、祭壇、墓地の聖職者の叙階における金銭の徴収、贖宥による金銭の徴収……などである。
  (ヨーロッパ中世史研究会編『西洋中世史料集』より、一部改変)

問い フス戦争へと至った経緯を踏まえるとともにフス派が何に対して戦っていたかに重点を置きつつ、その結果と歴史的意義を論じなさい。(400字以内)

テーマ
1.フス戦争の経緯
2.フス派は何に対して戦っていたか
3.フス戦争の結果
4.フス戦争の歴史的意義

〇フス戦争の構図

ポイント
1.フス戦争の経緯
①神聖ローマ帝国に編入されたベーメンで、ドイツ系貴族の支配に対してスラヴ系のチェック人たちが反発
②ローマ教会の腐敗、教会大分裂により権威失墜
③イギリスのウィクリフに共鳴し、ベーメンでプラハ大学の教授であったフスが聖書による信仰を主張し、教皇の権威を否定、チェック人たちはこれを支持
④神聖ローマ皇帝ジギスムントは、教会大分裂を収束するために開催したコンスタンツ公会議でフスを異端として処刑
2.フス派は何に対して戦っていたか
⑤フス派は神聖ローマ皇帝、ローマ教皇を相手に戦った
3.フス戦争の結果
⑥神聖ローマ皇帝、ローマ教皇はフス派の中の穏健派と組み、過激派を破り和平へ
4.フス戦争の歴史的意義
⑦ローマ教会からの自立を目指した点で宗教改革を先取りしたものだったこと
 ⑧チェック人の民族意識を高め、後の民族運動につながったこと

解答例
フス戦争の背景として、神聖ローマ帝国に編入されたベーメンでドイツ系貴族の支配に対し、スラヴ系のチェック人たちの反発があったこと、ローマ教会の腐敗が進み、教会大分裂により権威が失墜したことでカトリックへの批判が強まっていたことがある。こうした中、イギリスのウィクリフに共鳴し、ベーメンのプラハ大学の教授であったフスが聖書による信仰を主張し、教皇の権威を否定すると、チェック人たちはこれを支持した。神聖ローマ皇帝ジギスムントは教会大分裂を収束するために開催したコンスタンツ公会議でフスを異端として処刑、これに対してフス派は神聖ローマ皇帝、ローマ教皇を相手に戦った。神聖ローマ皇帝、ローマ教皇はフス派の中の穏健派と組み、過激派を破って和平を結んだ。フス戦争の歴史的意義は、ローマ教会からの自立を目指した点で宗教改革を先取りしたものだったこと、チェック人の民族意識を高め、後の民族運動につながったことである。
(400字)

第2問

 次の文章を読んで、問いに答えなさい。
 明治4年11月12日(陰暦)、右大臣岩倉具視を特命全権大使とし、木戸孝允、大久保利通、伊藤博文らを副使とする総勢46名の外交団をのせた商船アメリカ号が横浜港を出港した。一般に岩倉使節団と呼ばれるこの一行は、約3週間の太平洋横断航海ののちサンフランシスコに到着し1年半あまりに及ぶ長い欧米歴訪を開始した。竣工したばかりの大陸横断鉄道などを使ってワシントンD.C.へ移動した岩倉らは、その後、大西洋を渡ってロンドンへ、ドーヴァー海峡を越えて(a)パリへ行き、ここで、(b)明治6年1月1日の改暦(注)を迎えた。その後も、ブリュッセル、ハーグ、ベルリン、サンクトペテルブルク、コペンハーゲン、ストックホルム、ローマ、ウィーン、そしてベルンなどの各都市を訪問した一行は、同年7月にマルセイユから再び船上の人となり、完成まもないスエズ運河を経由して、9月に横浜に帰着した。
 岩倉使節団の目的は、幕末に相次いで結ばれた条約の締約国を訪れて元首に謁見し、加えて条約改正の予備交渉を行うこと、さらには、欧米諸国の政治制度、経済状況から都市や農村の景観に至るまで、さまざまな側面について見聞を広めることであった。
 随行した久米邦武が帰国後にまとめて出版した記録『特命全権大使米欧回覧実記』には、多くの風景スケッチや各国についての概説がもりこまれており、明治初年の日本人が欧米に対してどのようなまなざしを向けていたかを知ることができる。とくに、本書で久米が大国だけでなく、東欧や中欧の小国についても十分な紙幅を割き、それぞれが有する可能性と直面する課題を論じていることは注目に値する。小国に対するこのような関心は、その後、日本が大国への道を歩み始めるにつれて急速に薄れていくことになる。
 (注) 陰暦明治5年12月3日を陽暦に基づき明治6年1月1日とした。

問1 下線部(a)での滞在中に、久米らは、その2年足らず前にこの都市を舞台にして起こったある出来事で最後の大規模な戦闘があった墓地を訪れている。この出来事については、カール・マルクスが『フランスにおける内乱』と題した冊子で議論している。この出来事を説明しなさい。(50字以内)

問2 下線部(b)に先立つ十数年間のうちに、ヨーロッパの国際関係は大きく変化した。この変化が準備し、この世紀の末にかけて顕著になる国際関係上の趨勢を視野に入れながら、この変化を説明しなさい。ただし、下記の語句をすべて必ず使用し、その語句に下線を引きなさい。(350字以内)

 教皇 ヴェルサイユ 資本 バルカン アフリカ

問1 テーマ:明治6年の2年足らず前にパリを舞台に起きた大規模な戦争(マルクスが『フランスにおける内乱』と題した冊子で議論)について説明
   
ポイント
1.問題文の読解
明治6年=大政奉還(1867)+6=1873年 その2年前なので1871年
パリを舞台に起きた大規模な戦争で、『フランスにおける内乱』なのでパリ=コミューン
2.パリ=コミューンについて
①普仏戦争の講和に不満を持つパリ市民がパリ=コミューンを組織
②独と結んだ臨時政府によって鎮圧

解答例
問1普仏戦争の講和に不満を持つパリ市民がパリ=コミューンを組織したが独と結んだ臨時政府に鎮圧された。(50字)

問2 テーマ
1.1873年に先立つ十数年間に起きたヨーロッパの国際関係の変化
2.この変化が準備し、この世紀の末にかけて顕著になる国際関係上の趨勢

1.1873年に先立つ十数年間に起きたヨーロッパの国際関係の変化
①(変化前)独・伊は長年分裂状態
②(変化後1)独はビスマルクが鉄血政策で統一を進め、普墺戦争、普仏戦争で勝利してヴェルサイユ宮殿でヴィルヘルム1世が即位し、統一達成
③(変化後2)伊は、サルデーニャ王国が統一を進め、イタリア王国成立後、教皇領を併合した
2.この変化が準備し、この世紀の末にかけて顕著になる国際関係上の趨勢
④ビスマルク外交…仏の孤立化を図り、三帝同盟、三国同盟を結ぶ
⑤帝国主義…資本主義が発達し、独占資本の形成を背景に各国が帝国主義に移行
⑥独はヴィルヘルム2世の即位後、積極的な世界政策に転換し、英と建艦競争で対立
⑦また、独が3B政策でバルカンから中東方面へ進出すると、英の3C政策と対立、露のパン=スラヴ主義と対立し、独に対する警戒が強まる
⑧こうした背景から露仏同盟が締結
⑨また、アフリカ分割をめぐってファショダ事件が起こったことから英仏が接近。第一次世界大戦の対立構造の形成が始まった

解答例
問2独・伊は長年分裂状態にあったが、独はビスマルクが鉄血政策で統一を進め、普墺戦争、普仏戦争に勝利してヴェルサイユ宮殿でヴィルヘルム1世が即位し、統一を達成。伊はサルデーニャ王国が統一を進め、イタリア王国成立後、教皇領を併合した。統一を実現したビスマルクは仏の孤立化を図り、三帝同盟、三国同盟を締結した。その後、各国は資本主義の発達による独占資本の形成を背景に帝国主義に移行した。独はヴィルヘルム2世の即位後、積極的な世界政策に転換して英と建艦競争で対立。また独が3B政策でバルカンから中東方面へ進出すると、英の3C政策や露のパン=スラヴ主義と対立。こうした背景から露仏同盟が締結された。また、アフリカ分割をめぐりファショダ事件が起こったことから英仏が接近。第一次世界大戦の対立構造の形成が始まった。(350字)

第3問

次の文章を読み、問いに答えなさい。

 明の自滅と清の入関は、 (A. )にとって大きな岐路となった。(A. )は福州において皇族の朱聿鍵を唐王として擁立したが、1646年に福州が陥落すると清に帰順した。……これに対して息子の(B. )は官僚になるための研錆を積んでいたためであろうか、父と別れて清に抵抗する道を選んだあと、一個の政権を目指して活動を展開する。
 清朝は(B.  )を弱らせるために、順治13年(1656)には、沿海地域の商船が出航して(B.  )の側に食料や貨物を売ることを禁止し、さらに玄ヨウ(火+華、康煕帝)が即位した順治18年(1661)には福建省を中心に広東から山東にかけて、海岸線から30里(約15キロメートル)以内の地帯の住民を内陸に移住させる政策を強行した。
 沿海地域を無人化するこの(c. )は、私たち現代人の感覚からすると無謀であるように感じられるものの、福建の沿海地域で村落調査をしてみると、確かに実行されたことが明らかである。(B. )の勢力は本土から切り離され、海上に孤立した。(B. )は厦門から撤退し台湾に拠点を移した。
台湾に2万5000の将兵を率いて移った(B. )は、康煕元年(1662)には(D. )人が築いていたプロヴィンシア砦(赤嵌城)を攻略し、ゼーランジディア砦(台湾城)を包囲し、(D. )人勢力を台湾から撤退させた。
  (上田信『海と帝国:明清時代』より、一部改変)

問1 空欄(A. ) (B. ) (C. ) (D. )に当てはまる語句を答えなさい。なお、A、Bには人名、Cには政策名、Dには国名が入る。さらに、Dが17世紀アジアにおいて展開した活動について述べなさい。(200字以内)

問2 Bが台湾にその拠点を移した直後、漢人武将による清朝に対する大きな反乱が起こった。その反乱とは何であるかを述べたうえで、その経緯、清朝史において有した意味を論じなさい。(200字以内)

問1 テーマ:オランダが17世紀アジアにおいて展開した活動

ポイント
①1602年に東インド会社を設立
②セイロン島、マラッカ、モルッカ諸島など、かつてのポルトガルの拠点を次々に奪う
③ジャワにバタヴィアを建設して拠点とする
④1623年のアンボイナ事件でモルッカ諸島からイギリスを締め出し、香辛料貿易を独占
⑤台湾にゼーランディア城を築いて拠点とし、中国と交易
⑥日本とは平戸で交易し、江戸幕府の鎖国以降は出島を通じて交易

解答例
問1A鄭芝竜B鄭成功C遷界令Dオランダ。オランダは1602年に東インド会社を設立し、セイロン島、マラッカ、モルッカ諸島などかつてのポルトガルの拠点を次々に奪っていった。また、ジャワのバタヴィアを建設して拠点とし、1623年のアンボイナ事件ではモルッカ諸島から英を締め出し、香辛料貿易を独占した。また、台湾にゼーランディア城を築いて拠点とし、中国と交易した。日本とは平戸で交易し、江戸幕府の鎖国以降は出島を通じて交易した。(200字)

問2 テーマ
1.三藩の乱の経緯
2.清朝史において有した意味

ポイント
1.三藩の乱の経緯
①李自成の乱で明朝が滅亡、明の将軍・呉三桂は女真族の清に降伏して中国征服に協力
②征服に功績のあった呉三桂をはじめ、3人の武将を雲南・広東・福建の藩王に任命
③康熙帝は、三藩の撤廃により直轄支配を図る
④これに反発して三藩の乱が起こるが、清はこれを鎮圧
⑤台湾の鄭氏も制圧
2.清朝史において有した意味
⑥三藩の乱鎮圧により女真族の中国本土の一元的支配が完成
⑦康熙帝が清朝全盛期の基盤を築いた

解答例
問2三藩の乱。李自成の乱で明朝が滅亡すると、明の将軍・呉三桂は清に降伏し、中国征服に協力した。清朝は功績のあった呉三桂をはじめ、3人の武将を雲南・広東・福建の藩王に任命した。康熙帝が三藩の撤廃を図ろうとすると反発して三藩の乱が起こるが、清はこれを鎮圧し、その後台湾の鄭氏も下した。三藩の乱鎮圧が清朝史において有した意味は、女真族の中国本土の一元的支配が完成し、康熙帝が清朝全盛期の基盤を築いたことである。(200字)

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