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一橋大学(2018年)

第1問

次の文章を読んで、問いに答えない。

 人間は自分の「空間」についてもある一定の意識をもっているが、これは大きな歴史的変遷に左右されるものである。種々さまざまな生活形態には同じく種々さまざまな空間が対応している。同時代においてさえも日々の生活の実践の場面では、個々の人間の環境はかれらのさまざまな職業によってすでにさまざまに規定されている。大都会の人間は農夫とはちがったふうに世界を考える。捕鯨船乗組員はオペラ歌手とはちがった生活空間をもっており、また飛行家にとって世界と人生は他の人々とは別の光の中に現われるだけでなく、別の大きさ、深み、そして別の地平において現われてくる。
 (中略)クリストファー・コロンブスがコペルニクスの出現を待ってはいなかったと同様に、歴史的な諸力も学問を待ってはいない。歴史の力の新しい前進によって、新たなエネルギーの爆発によって新しい土地、新しい海が人間の全体意識の範囲の内に入ってくるたびごとに、歴史的存在の空間もまた変わってゆく。そして政治的・歴史的な活動の新たな尺度と次元が、新しい学問、新しい秩序が……始まるのだ。この拡大・発展がひじょうに根深くまた思いがけないものであるために、ただ人間の標準や尺度、外的な地平だけでなく、空間概念そのものの構造まで変わってしまうということもある。ここにおいて空間革命ということが問題になりうる。
 (カール・シュミット著、生松敬三/前野光弘訳『陸と海と一世界史的一考察』より引用。但し、一部改変)

問い ヨーロッパの歴史を考えるとき、この文章で述べられるような「空間革命」が11〜13世紀にかけて見られたと考えられる。それはどのようなきっかけによるものだったか、また、結果としてヨーロッパでどのような経済・社会・文化上の変化が生じたか、考察しなさい。(400字以内)

テーマ 11~13世紀の空間革命のきっかけと、空間革命による経済・社会・文化の変化

ほとんどの解答例が触れていないことが、何がどのように「変化」したのかということです。

「変化」が見えなければ、どのように空間が拡大したのかということが説明できなくなってしまいます。

「変化」を問う問題は、必ず変化の前と後を明確にしなければなりません。

また、空間革命の問題ですので「どのように空間が拡大したのか」ということが答案から分かるように表現しましょう。

ポイント
1.空間革命のきっかけ
①三圃制や重量有輪犂など農業技術の進歩により、大開墾時代が到来し、農業生産量が増大して人口が増加
②これを契機に西欧世界は拡大に向かい、十字軍・レコンキスタ・東方植民が行なわれた
2.空間革命の結果
(1)経済の変化
③(変化前)自給自足の現物経済
④(変化後)貨幣経済が浸透して商業が復活し、東方貿易を始めとした遠隔地貿易が発展
(2)社会の変化
⑤(変化前)荘園中心の世界
⑥(変化後)交通の要衝に都市が形成され、都市で生活する人々が増加
⑦(変化後)封建領主の支配からの解放を求めて国王や皇帝から特許状を獲得し、自治都市という全く新しい空間を形成
(3)文化の変化
⑧(変化前)西欧で失われていた古典古代文化、宮廷や修道院などの閉鎖的な空間に学問の場が限定
⑨(変化後)十字軍などを通じたビザンツ・イスラーム圏との接触により12世紀ルネサンスが起こり、ギリシア語やアラビア語の文献がラテン語に翻訳
⑩(変化後)また、各地に大学も設立されて、学問の場が拡大した

解答例
三圃制や重量有輪犂など農業技術の進歩により、大開墾時代が到来し、農業生産量が増大して人口が増加した。これを契機に西欧世界は拡大に向かい、十字軍・レコンキスタ・東方植民が行なわれた。経済的な変化としては、自給自足の現物経済から貨幣経済が浸透して商業が復活し、東方貿易を始めとした遠隔地貿易が発展した。社会的な変化としては、荘園中心の世界だったが、交通の要衝に都市が形成され、都市で生活する人々が増加した。また、封建領主の支配からの解放を求めて国王や皇帝から特許状を獲得し、自治都市という全く新しい空間を形成した。文化的な変化としては、十字軍などを通じたビザンツ・イスラーム圏との接触により、西欧で失われていた古典古代文化が流入する12世紀ルネサンスが起こり、ギリシア語やアラビア語の文献がラテン語に翻訳された。また、各地に大学も設立されて、宮廷や修道院などの閉鎖的な空間に限定されていた学問の場が拡大した。(400字)

第2問

近代ドイツの史学史に関する次の文章を読み、問いに答えなさい。

 総じて言えば、一概に古代経済史研究とは称しても、歴史学派〔経済学〕におけるものと〔近代歴史学の〕古典古代学におけるものとは、研究への志向の契機においても、事象の対象化の方法においても、ひとしからざるものが存するのである。歴史学派経済学はその根本の性格においては依然として経済学なのであって──即ち歴史学ではないのであって──古代にも生活の一特殊価値たる経済を発見せんとすることが最も主要な研究契機を形作ってゐるのに、古典古代学にあっては、経済をもそのうちに含むところの古代世界への親炙が研究契機になってゐる。歴史学派においては全ヨーロッパ的経済発展上の然るべき位置に古代経済を排列することが問題になってゐるのに、古典古代学においては、古代と現代とを本来等質の両世界として、又等質たるべき両世界として表象することが主要問題になってゐる。古典古代学にも発展の理念は存するけれども、それは等質の両世界における、同一律動のそして自界完了的なる発展の理念であって、全ヨーロッパ的、又は全人類的発展の観念ではない。古代の事象は、それが経済世界を構成する方向において対象化せられるのが歴史学派経済学における方法であるのに、古典古代学においては、古代の事象はそれが歴史的現実的なる古代を形成する方向において対象化せられる。もしかくの如き観察が──多数の異例は別として──一般的に下されうるものとすれば、古代経済に関する論争が単に史料の技術的操作の辺にのみ存するものではない所以と、論争のよって来るところの精神史的・文化史的深所とをも、同時に理解しうるわけであらう。
 (『上原専祿著作集3 ドイツ近代歴史学研究新版』より引用。但し、一部改変)

問い 文章中の下線部について、歴史学派経済学と近代歴史学の相違とはいかなるものであり、また、それはどのようにして生じたのか、両者の成立した歴史的コンテクストを対比させつつ考察しなさい。(400字以内)

テーマ 歴史学派経済学と近代歴史学の相違とは何か。また、この相違が生じた歴史的な背景の違いは何か。

史料文がヒントになるのは、歴史学派経済学は「全ヨーロッパ的経済発展上の然るべき位置に古代経済を排列することが問題」なのに対して、近代歴史学は「古代と現代は本来等質」であり、「全ヨーロッパ的、又は全人類的発展の観念はない」という部分です。

つまり、歴史学派経済学は「全ヨーロッパ的発展」のような共通法則の下に歴史をとらえる傾向を持っているのに対し、近代歴史学は古代と現代は本来等質であり、「全ヨーロッパ的発展」のような共通法則はない、ということです。

少し知識が必要なので補足すると、歴史学派経済学は、古代は近代の前段階にあるという「進歩史観」に基づき、「普遍的な法則性」を発見しようとすることを目的とします。

この課題文の原典も読んでみましたが、上原専祿はこの課題文の引用部分以外にも、同じ著作の中で「(リストの思想において)経済発展の主体として考えられているものは常に国民であり、その発展段階説もまた、あらゆる国民における経済発展律動の同一性の主張という内容のものとなっているのである」(『ドイツ近代歴史学研究新版』P51)と述べています。

「あらゆる国民における経済発展律動の同一性」というのは、国民の枠組みを超えてた、経済の発展段階を著す「共通」のモノサシがあるということです。

それに対して、近代歴史学は古代と現代は「等質の世界」であると見なします。そこには「どちらかが上で、どちらかが下である」という価値観もありません。近代歴史学はそれぞれの「個別の世界」を正確に把握することを学問の目的とします。

歴史学派経済学の「普遍性」と近代歴史学の「個別性」という対照軸です。

比較の問題は、この「対照性」を発見することが最大のポイントになります。

一橋が繰り返し問うのは、「ドイツの分裂と統一」というテーマです。

ドイツは長年分裂状態にありましたが、ようやく19世紀になって統一が進みます。

「経済的な統一」が求められる段階において歴史学派経済学が誕生し、「政治的な統一」が求められる段階において、近代歴史学が誕生したというのが大きな流れです。

経済的な統一の段階では、経済発展の「普遍的な」法則という観点から、ドイツは保護貿易を行う必要がありました。

産業革命の進んだイギリス製品の流入を排除するために、ドイツ関税同盟が結成されます。

一方、政治的な統一の段階においては、イギリスやフランスとは異なる「ドイツの固有性」を追求しなければならないという事情がありました。

バラバラなドイツを政治的に統一するためには、それぞれ自分の領邦に対して帰属意識を持つ人たちに、「我々は同じドイツ国民なのだ」ということを自覚させる必要がありました。

流れとしてはロマン主義の影響を受けています。ロマン主義は、古典主義が追求した理性や普遍性を否定し、感情や個別性を重視する時代の潮流です。

たとえば、ドイツのロマン主義を代表するのがグリム兄弟ですが、彼らがグリム童話(赤ずきん、シンデレラ、ヘンゼルとグレーテルなど)を編纂したのもドイツ民族を一つにまとめるためでした。(ちなみに、グリム兄弟の兄ヤコブは、1848年のフランクフルト国民議会にも参加しています。)
近代歴史学もロマン主義の延長線上にありますので、民族固有の歴史というものを発見するという時代的な要請によって生まれたものです。

以上のことを念頭に置きながら対比をしていきます。

解答のポイント
1.歴史学派経済学
①歴史学派経済学は、リストによって創始
②歴史の発展段階に合わせた経済政策の必要性を強調
③進歩史観に基づき、普遍的な発展の法則性の発見を追究しようとしたことに特徴
④当時、ドイツは経済的に統一されておらず、発展も遅れていたためイギリスのような自由貿易主義をとると、産業革命の進んだイギリスの製品が国内に流入して国内産業が大打撃を受ける危険があったこと
⑤保護貿易の必要性を主張し、ドイツ関税同盟の結成に影響を与えた
2.近代歴史学
⑥近代歴史学は、ランケによって創始
⑦厳密な史料批判に基づく歴史学
⑧ロマン主義の影響から普遍性を否定し、ドイツ民族固有の歴史を追究したことに特徴がある
⑨歴史的な背景は政治的統一が求められる中で、イギリスやフランスとは異なるドイツ民族の独自性を求めるナショナリズム運動
⑩ドイツにおける帰属意識の高揚と国民国家の形成に影響を与えた

解答例
歴史学派経済学は、リストによって創始され、歴史の発展段階に合わせた経済政策の必要性を強調した。進歩史観に基づき、普遍的な発展の法則性の発見を追究しようとしたことに特徴がある。当時、ドイツは経済的に統一されておらず、発展も遅れていたため、イギリスのような自由貿易主義をとると、産業革命の進んだイギリス製品が流入して国内産業が大打撃を受ける危険性があった。こうした事情から保護貿易の必要性を主張し、ドイツ関税同盟の結成に影響を与えた。これに対して近代歴史学は、ランケによって創始された厳密な史料批判に基づく歴史学である。ロマン主義の影響から普遍性を否定し、ドイツ民族固有の歴史を追究したことに特徴がある。近代歴史学は、政治的統一が求められる中で、イギリスやフランスとは異なるドイツ民族の独自性を求めるナショナリズム運動を歴史的な背景としており、ドイツにおける帰属意識の高揚と国民国家の形成に影響を与えた。(400字)

「相違」というのは「対照性」です。

違いが際立っている部分を抽象化させて考える必要があります。

比較をするときに、「どのように対照的なのか」を抽象化させることが最も大切です。

大学入試問題の比較の問題を研究していくと、抽象化のさせ方もある程度パターン化はできます。

「普遍」と「固有」
「理性」と「感情」
「統一」と「分裂」
「集権」と「分権」
「経済」と「政治」
「単数」と「複数」(「少ない」と「多い」)
「従属」と「独立」
「ある」と「ない」
「民主」と「独裁」
「限定」と「拡大」
「下から」と「上から」

などです。

この問題はレジェンドと呼ばれる難問ですが、2021年第2問と同じような構造を持っているということがわかります。

19世紀ドイツ史が出題された際に意識してほしい構造です。

第3問

次の文章は、ある朝鮮人革命家が、アメリカのジャーナリストに語った回想を元に書かれたものである。これを読んで、問いに答えなさい。(問1、問2をあわせて400字以内)

 先生は、中学校の教室の前に芝居じみた厳粛さで立ち、生涯忘れられない美しい言葉のあふれる演説をした──今日それはなんと反語的に響くことか!
 「この日、朝鮮独立の宣言はなされた。朝鮮全土に平和なデモ行動が行われよう。われわれはただ独立と民主主義を求めるのみだ。誰もわれわれの正当な要求を拒むことはできない。」
 私たちは彼に率いられて街に出、何千という他の学校の生徒や街の人々と隊伍を組み、歌いながらスローガンを叫びながら町中を行進した。
 デモの途中、町の中で大衆集会が開かれ、そこで新たな独立宣言が読みあげられた。この宣言は国際主義的心情の色彩が濃く、平和精神と万国の国際的信義の擁護とをうたっていた。また中国とインドに共闘の呼びかけを行っているが、①中国は山東半島の一部を日本に引き渡す運びとなった日英の秘密条約が発覚してからそれに応じてきた。
 私は世界的大運動に重要な役割を演じているような気持ちで、至福千年がついに来たのだと思いこんでいた。しばらくして伝わってきた②ヴェルサイユの裏切りのショックは大変なもので、私などまるで心臓が裂けてとび出すかと思った。
 (ニム・ウェールズ著、松平いを子訳『アリランの歌』より引用。但し、一部改変)

問1 この文章全体で描写されている運動と下線①が示す運動について、それぞれの名称を示しなさい。

問2 下線②で示されている会議に言及しつつ、両運動の背景および、展開過程、意義を論じなさい。

テーマ 三・一運動、五・四運動の背景・展開過程・意義

背景の部分が最も難しく、共通の背景とそれぞれの背景があることを意識しなければなりません。

1.共通の背景
①パリ講和会議においてウィルソンが十四か条で民族自決を掲げ、民族独立の機運が高まっていたこと
2.三・一独立運動
②背景…日本の武断政治や土地調査事業への反発
③展開過程…独立万歳を叫ぶデモがソウルで発生し、全国に拡大→日本は武力で弾圧
④意義a…従来の武断政治を改め、言論統制などを緩和しつつ日本への同化政策を進める文化政治への転換をはかる
⑤意義b…大韓民国臨時政府が上海に樹立され、独立運動を継承
3.五・四運動
⑥背景…文学革命、民族資本の成長により、列強と結んだ軍閥支配への反発
⑦展開過程…パリ講和会議で日本による二十一カ条要求の撤廃が実現しなかったことをきっかけに北京大学学生のデモから全国規模の大衆運動に発展→北京政府はヴェルサイユ条約の調印を拒否
⑧意義a1…孫文は中国国民党、陳独秀は中国共産党を結成
⑨意義a2…第一次国共合作が成立し、軍閥打倒の運動を推進

解答例
1.三・一運動、五・四運動。2.両運動ともにパリ講和会議においてウィルソンが十四か条で民族自決を掲げ、民族独立の機運が高まっていたことが共通の背景にある。日本の支配下にあった朝鮮では、武断政治や土地調査事業への反発を背景に、独立万歳を叫ぶデモがソウルで発生し、全国に拡大した。日本は武力で弾圧したが、これを契機に武断政治を改め、文化政治への転換をはかった。一方、大韓民国臨時政府が上海に樹立され、独立運動が継承された。一方、中国では文学革命や民族資本の成長により、列強と結んだ軍閥の支配に対する反発が高まっていた。パリ講和会議で日本による二十一カ条要求の撤廃が実現しなかったことに激高した北京大学の学生のデモが、全国規模の大衆運動に発展し、北京政府はヴェルサイユ条約の調印を拒否した。これを機に孫文は中国国民党、陳独秀は中国共産党を結成、両者は第一次国共合作によって共闘し、軍閥打倒の運動を推進した。(400字)

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