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一橋大学(1999年)

第1問

8世紀後半から11世紀にかけて、ノルマン人の活動はヨーロッパ全体に大きな影響を及ぼしたが、とりわけイングランド初期の歴史には密接な関わりを持っている。9世紀初めから11世紀までのイングランドの王朝の変遷を、次の語句を用いて説明するとともに、それが11世紀以降に及ぼした政治的影響について述べなさい。(400字)

七王国(ヘプターキー) ロロ  ヘースティングズの戦い

解答のポイント
①アングロ=サクソン人による七王国(ヘプターキー)は、9世紀にウェセックス王エグバートにより統一され、イングランド王国が成立した
②その後、デーン人の侵入を受けるが、アルフレッド大王がこれを撃退
③11世紀、デーンの王クヌートの征服によりデーン朝が成立し、デンマーク、ノルウェーとともに北海帝国を形成するが、短期間で滅亡
④イングランドではアングロ=サクソンの王朝が復活
⑤北フランスにノルマンディー公国を建国したロロの子孫にあたるウィリアムは、ヘースティングズの戦いで勝利してイングランドを征服し、ノルマン朝を開いた
⑥ノルマン朝は征服により成立したため、国王が広大な領土を所有し、大陸諸国に比べ当初から強力な王権を持った
⑦また、イングランド王はノルマンディー公として形式的にはフランス王の家臣であるにも関わらず、フランス領内に広大な土地を所有したため、百年戦争に至る英仏間の抗争を引き起こすことになった

解答例
アングロ=サクソン人による七王国(ヘプターキー)は、9世紀にウェセックス王エグバートにより統一され、イングランド王国が成立した。その後、デーン人の侵入を受けるが、アルフレッド大王がこれを撃退した。11世紀、デーンの王クヌートの征服によりデーン朝が成立し、デンマーク、ノルウェーとともに北海帝国を形成したが、短期間で滅び、イングランドではアングロ=サクソンの王朝が復活した。北フランスにノルマンディー公国を建国したロロの子孫にあたるウィリアムは、ヘースティングズの戦いで勝利してイングランドを征服し、ノルマン朝を開いた。ノルマン朝は征服により成立したため、国王が広大な領土を所有し、大陸諸国に比べ当初から強力な王権を持った。また、イングランド王はノルマンディー公として形式的にはフランス王の家臣であるにも関わらず、フランス領内に広大な土地を所有したため、百年戦争に至る英仏間の抗争を引き起こすことになった。(400字)

第2問
次の文章は、ドイツの法学者オットー・フォン・ギールケが、1889年4月5日に行った講演の一部である。これを読んで、下の問いに答えなさい。

 我々に必要な私法は、個人の不可侵の領域を十分尊重するけれどもそこに共同体の思想が息づいているような私法です。端的に言えば、公法には自然法的自由の気風が息吹かねばならないし、私法には社会主義の油を一滴しみ通らせねばならないのです。

 問 この講演にみられるようなドイツ民法典への社会的要請について、フランス民法典と比較しつつ、1870年から1900年までの政治的・社会的状況を説明しなさい。(400字)

解答のポイント
①中世以来の分裂状態からドイツは1871年に統一を実現
②君主権の強い憲法を制定し、連邦制を採用したため、統一的な民法が存在しなかった
③その後、ビスマルクの保護関税政策により重工業が急速に成長すると、ドイツ国内で資本家と労働者の対立が激化
④労働者は社会主義運動を激化させ、私有財産の廃止を求めた
⑤資本家はドイツ民法典の制定による私有財産の保護を求めた
⑥ビスマルクは社会主義者鎮圧法によって運動を弾圧する一方で社会政策により労働者を保護
⑦しかし、その後も社会主義勢力は拡大を続けたため、ヴィルヘルム2世の即位後、鎮圧法は廃止され、社会民主党が成立
⑧ギールケはサヴィニー以来の歴史法学の伝統に基づき、ドイツの独自性を重視
⑨フランスのように私有財産の不可侵を絶対視する民法典には否定的
⑩ギールケは労働者側に立って「私法には社会主義の油を一滴しみ通らせねばならない」と主張

解答例
中世以来の分裂状態から1871年に統一を実現したドイツは、君主権の強い憲法を制定し、連邦制を採用したため、統一的な民法が存在しなかった。その後、ビスマルクの保護関税政策により重工業が急速に成長すると、ドイツ国内で資本家と労働者の対立が激化。労働者は社会主義運動を激化させ、私有財産の廃止を求めたため、資本家はドイツ民法典の制定による私有財産の保護を求めた。ビスマルクは社会主義者鎮圧法によって運動を弾圧する一方で社会政策により労働者を保護した。しかし、その後も社会主義勢力は拡大を続けたため、ヴィルヘルム2世の即位後、鎮圧法は廃止され、社会民主党が成立した。労働者が台頭する情勢の中、サヴィニー以来の歴史法学の伝統に基づき、ドイツの独自性を重視したギールケは、フランスのように私有財産の不可侵を絶対視する民法典には否定的であり、労働者側に立って「私法には社会主義の油を一滴しみ通らせねばならない」と主張した。(400字)

第3問
次の文章は、ある朝鮮人革命家がアメリカのジャーナリストに語った話をもとに書かれたものである。これを読んで、下の問いに答えなさい。

 全朝鮮人は右派左派共々に、中国におけるこの(革命の)高まりを己れ自身の国を解放する第一歩と考えて喜んだ。戦闘参加を志願して真先に広東へ馳せ参じた人の中にさまざまな種類の朝鮮人革命家たちがいた。
 (中略)朝鮮人は中国人にまじってあらゆる分野で活発に働いた。あるものは顧問として、あるものは黄埔軍官学校や中山大学の教官として、あるものは革命軍の幕僚として。他のものは軍隊に入って戦った。
 (中略)今となってはあの北伐に向かう革命家たちすべてが感じていた、浮き立つ心と熱狂を思い出すことさえ難しい。……華北へ、朝鮮へ、私たちの心はおどった。「故国で、満州で、二千万朝鮮人が全アジアの自由のための武器をとって帝国主義と戦おうと待っている」と私たちは中国人に確信をもって語った。
 (ニム・ウェールズ『アリランの歌』、1941年、松平いを子訳)

問1 中国のこの革命はどのようなかたちで収束したのか、次の語句を使って説明しなさい。(300字)
  武漢  南京  上海

解答のポイント
①五・四運動を受け、中国国民党と中国共産党が成立
②孫文は連ソ・容共・扶助工農の理念の下で国共合作を実現、広州に国民政府を組織
③孫文の死後、蔣介石が国民革命軍を率いて北伐を開始
④国民党内の容共左派は武漢国民政府を樹立、蔣介石は南京に国民政府を樹立
⑤浙江財閥の支援を受けた蒋介石は共産党勢力拡大を恐れ、上海クーデタで共産党を弾圧
⑥これを受けて武漢国民政府も南京国民政府に合流した
⑦その後、山東半島で日本と衝突するがこれを回避し北上
⑧張作霖爆殺事件をきっかけに張学良が帰順して北伐は完了、国民革命は収束した
⑨しかし共産党は中華ソヴィエト共和国臨時政府を組織して存続し、軍閥も地方では勢力を維持した

解答例
問1五・四運動を受け、中国国民党と中国共産党が成立した。孫文は連ソ・容共・扶助工農の理念の下で国共合作を実現、広州に国民政府を組織した。孫文の死後、蔣介石が国民革命軍を率いて北伐を開始。国民党内の容共左派は武漢に国民政府を樹立し、蔣介石は南京に国民政府を樹立した。浙江財閥の支援を受けた蒋介石は、上海クーデタで共産党を弾圧した。これを受けて武漢国民政府は南京国民政府に合流した。その後、山東半島で日本と衝突するがこれを回避し北上した。張作霖爆殺事件をきっかけに張学良が帰順して北伐は完了し、国民革命は収束した。しかし共産党は中華ソヴィエト共和国臨時政府を組織して存続し、軍閥も地方では勢力を維持した。(300字)

問2 当時広東には朝鮮人以外にもアジア地域の革命家・独立運動家が集まっていた。民族革命のための組織を広東で結成した、アジアのある地域のこの時期の革命運動について述べなさい。(100字)

解答のポイント
①仏のヴェトナム支配に対し、ファン=ボイ=チャウは広東でヴェトナム光復会を組織するが失敗
②一方、ホー=チ=ミンは広東でヴェトナム青年革命同志会を組織
③同組織はインドシナ共産党に発展し、反仏闘争を展開した

解答例
問2仏のインドシナ支配に対して、ファン=ボイ=チャウは広東でヴェトナム光復会を組織したが失敗。一方、ホー=チ=ミンは広東でヴェトナム青年革命同志会、次いでインドシナ共産党を組織し、反仏闘争を展開した。(100字)


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