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一橋大学(2010年)

第1問

 次の文章を読んで、問いに答えなさい。
 「政治的主権者は、もしキリスト教徒であれば、かれ自身の領土における教会の首長である。キリスト教徒たる主権者たちにおける、政治的権利と教会的権利との、この統合から、政治と宗教との双方における人びとの外的行為を統治するために人間にあたえられうるかぎりの、あらゆる様式の権力を、かれらの臣民たちに対してかれらがもっているということは、明白である。そして、かれらは、コモン-ウェルスとして、および教会としての、かれら自身の臣民を統治するために、かれらが最適と判断するであろうような諸法をつくっていいのであって、国家と教会とは、同一の人びとなのである。」(ホッブズ『リヴァイアサン』水田洋訳より)

問い 17世紀に執筆されたこの文章は、当時のヨーロッパ世界になお残っていた政治・社会状況を前提に書かれている。中世のヨーロッパ世界では、11世紀後半から13世紀初頭にかけて、皇帝(世俗権力)と教皇(教会権力)との関係が大きな政治問題として顕在化していた。皇帝権と教皇権とのあいだで展開された一連の政治闘争は、1122年の協約によって一応の結論に達したとされる。この争いが現実の政治・社会生活に対してもった意義とは、どのようなものだったのだろうか。1122年に締結された協約の意義にも言及しながら論じなさい。(400字以内)

テーマ:
1.聖職叙任権闘争が現実の政治に対してもった意義
2.聖職叙任権闘争が社会生活に対してもった意義
3.1122年に締結された協約の意義

ポイント
1.聖職叙任権闘争が現実の政治に対して持った意義
①皇帝の権威が失墜し、神聖ローマ帝国の政治的分裂が固定化
②教皇権が王権や皇帝権に超越するようなり、インノケンティウス3世の時代に教皇権が絶頂期に
 →仏王フィリップ2世や英王ジョンを屈服させる
③普遍的な権威となった教皇の呼びかけにより、十字軍・レコンキスタ・東方植民が行われた
2.聖職叙任権闘争が社会生活に対してもった意義
④教皇を頂点とし、教区の司祭を末端とする教会組織が確立
⑤教会は儀式を通じて民衆を教化し、独自の教会法に基づき支配を推進する体制が整った
3.1122年に締結された協約の意義
⑥ヴォルムス協約では教皇が聖職者の叙任権を持ち、皇帝は封土の授与権を持つ
⑦独では皇帝が、帝国内の聖職者の任免権を持つ帝国教会政策が破綻
⑧ビザンツ帝国の皇帝教皇主義とは異なり、西欧では聖権・俗権が分離するように

解答例
1122年に締結されたヴォルムス協約では、教皇が聖職者の叙任権を持ち、皇帝は封土の授与権を持つことが取り決められた。これにより、独では皇帝が帝国内の聖職者の任免権を持つ帝国教会政策が破綻した。また、ビザンツ帝国の皇帝教皇主義とは異なり、西欧では聖権・俗権が分離した。叙任権闘争が現実の政治に対して持った意義は、インノケンティウス3世の時代に教皇権が絶頂期に達し、仏王フィリップ2世や英王ジョンを屈服させるなど教皇権が王権に超越するようなったこと、独では神聖ローマ皇帝の権威が失墜し、政治的分裂が固定化したこと、西欧において普遍的な権威となった教皇の呼びかけにより、十字軍・レコンキスタ・東方植民が行われたことである。叙任権闘争が社会生活に対してもった意義は、教皇を頂点とし、教区の司祭を末端とする教会組織が確立したこと、教会が儀式を通じて民衆を教化し、独自の教会法に基づき支配を推進する体制が整ったことである。(400字)

第2問

次の文章を読んで、問いに答えなさい。
 2008年アメリカ大統領選における民主党候補者争いは、ヒラリー・クリントンとバラク・オバマによる史上まれに見る接戦となった。いずれも本選で当選すれば、アメリカ政治史上、初の女性大統領、黒人大統領の誕生となることから大きな注目を集めることとなった。しかし、歴史をさかのぼれば、そもそも、アメリカ合衆国の建国時、女性にも黒人にも、大統領に立候補する被選挙権はもちろんのこと、政治に一票を投じる参政権すら付与されていなかった。
 アメリカでは、19世紀前半のジャクソン大統領の時代に男子普通選挙制が採用されたが、黒人(奴隷)や女性は蚊帳の外に置かれた。南北の激しい内戦をへて、奴隷制が解体されたのちの再建の時代になって、憲法修正15条により「合衆国市民の投票権は、人種、肌の色、または過去における労役の状態を理由にして、合衆国または州によって拒否または制限されることはない」(1870年)と定められ、黒人男子の政治参加への道が開かれるかにみえた。しかし、白人による激しい抵抗にあい投票権を剥奪され、実質的な政治参加は、約百年後に成立した1965年の投票権法の成立を待たなければならなかった。
 一方の女性たちの参政権運動は、1848年にセネカ・フォールズにて開催されたアメリカ女性の権利獲得のための集会から始まったといわれる。19世紀後半には女性団体が運動を展開し、1920年になってようやく憲法修正19条により「合衆国市民の投票権は、性別を理由として、合衆国またはいかなる州によっても、これを拒否または制限されてはならない」と定められ、女性の連邦政治への参加が可能となった。

問1 南北戦争後の1869年には、アメリカの政治・経済の統合に大きな役割を果たす交通網が完成する。これは何か。また、海外においても同年、ヨーロッパとアジアの距離を短縮する交通史上の大きな変化が起こるが、それは何か。(50字以内)
 
問2 アメリカ合衆国以外の各国においても、この1920年前後に、女性参政権が実現した国々が多い。なぜこの時期に多くの国々で女性参政権が実現したのか、その歴史的背景を説明しなさい。その際、下記の語句を必ず使用し、その語句に下線を引きなさい。(350字以内)

 クリミア戦争 総力戦 ウィルソン ロシア革命 国民

問1 テーマ:
1.1869年に完成したアメリカの政治経済の統合に大きな役割を果たした交通網は何か。
2.ヨーロッパとアジアの距離を短縮する交通史上の大きな変化は何か。

「変化」の問題なので、「変化前」と「変化後」を明確にしましょう。

(変化前)アフリカ最南端の喜望峰を廻るルート
(変化後)スエズ運河ルート

解答例
問1大陸横断鉄道。欧州・アジア間は、アフリカ最南端を廻る喜望峰ルートからスエズ運河ルートに変化した。(50字)

問2 テーマ:1920年前後に多くの国で女性参政権が実現した歴史的背景

ポイント
1.19世紀における女性の地位向上
①19世紀半ばに起こったクリミア戦争で、ナイチンゲールが従軍看護婦として活躍
②女性の専門職進出に道を開き、社会的地位向上の気運が高まるきっかけに
2.第一次世界大戦における女性の地位向上
③1914年に起こった第一次世界大戦は国家の生産力が戦争の勝敗を左右する総力戦
④女性も国民国家の一員として戦争協力を求められた
⑤戦争遂行のために軍需工場などで女性が働くようになり、女性の社会進出が進む
⑥欧米では戦争への協力の見返りに参政権を要求する声が高まるように
3.女性参政権実現の具体例
⑦イギリスは第4回選挙法改正、ドイツではヴァイマル憲法で女性参政権が実現した
⑧アメリカでもウィルソン政権の下で憲法修正19条により女性参政権が実現
⑨第一次世界大戦の影響で起こったロシア革命で成立したソヴィエト政権は、社会主義的な平等の見地から女性参政権を認めた。

解答例
問219世紀半ばに起こったクリミア戦争において、ナイチンゲールが従軍看護婦として活躍したことは、女性の専門職進出に道を開き、社会的地位向上の気運が高まるきっかけとなった。1914年に起こった第一次世界大戦は国家の生産力が戦争の勝敗を左右する総力戦となり、女性も国民国家の一員として戦争協力を求められた。戦争遂行のために軍需工場などで女性が働くようになり、女性の社会進出が進んだ。こうした背景から戦争協力の見返りに女性たちの参政権を要求する声が高まるようになっていった。イギリスは第4回選挙法改正、ドイツではヴァイマル憲法、アメリカでもウィルソン政権の下で憲法修正19条により女性参政権が実現した。また、第一次世界大戦の影響で起こったロシア革命で成立したソヴィエト政権は、社会主義的な平等の見地から女性参政権を認めた。(350字)

第3問

次の文章はある国際会議の最終コミュニケの冒頭部分である。この文章を読んで、問いに答えなさい。

 アジア・アフリカ会議はビルマ、セイロン、インド、(A、  )及びパキスタンの各国首相の招請のもとに召集され、(B.  )年4月18日から24日まで(C.  )で会合した。主催諸国のほか次の24カ国が会議に参加した。

 1.アフガニスタン、2.カンボジア、3.中華人民共和国、4.エジプト、
 5.エチオピア、6.ゴールド・コースト、7.イラン、8.イラク、
 9.日本、10.ヨルダン、11.ラオス、12.レバノン、
 13.リベリア、14.リビア、15.ネパール、16.フィリピン、
 17.サウジアラビア、18.スーダン、19.シリア、20.タイ、
 21トルコ、22.ベトナム民主共和国、23.ベトナム国、24.イエメン

 アジア・アフリ力会議はアジア・アフリカ諸国に共通の利害と関心のある問題を検討し、各国国民が一層十分な経済的、文化的及び政治的協力を達成しうるための方法及び手段を討議した。
 (国名は原文に基づく。また、問題作成のため文章の一部改変を行った。)

問1 空欄(A. )、(B. )、(C. )に入る適当な語句を記しなさい。
 なお、Aには国名、Bには西暦年、Cには都市名が入る。次に、このコミュニケのなかで宣言された内容とはどのようなものであったかを説明しなさい。(100字以内)

問2 この会議に中華人民共和国を代表して参加した人物は、1936年にその後の中国国民党と中国共産党との関係に大きな影響を与えた出来事のなかで重要な役割を果たした。その人物とは誰であり、その出来事とはどのようなことであったかを説明しなさい。(150字以内)

問3 この会議にインドを代表して参加した人物は、英国の植民地支配下にあったインドを独立に導いた民族主義的政治団体の指導者の一人であった。この人物および政治団体の名前を記し、次に、この団体の政治運動の展開過程を説明しなさい。(150字以内)

問1 テーマ:アジア・アフリカ会議で宣言された内容

ポイント:平和十原則の内容についてまとめる
①「国際紛争の平和的解決」などで武力行使による問題解決を否定
②「主権と領土保全の尊重」などで反帝国主義、反植民地主義を主張
③「軍事ブロックの自制」などで非同盟の路線を打ち出した

解答例
問1AインドネシアB1955Cバンドン。平和十原則は、「国際紛争の平和的解決」で武力による問題解決を否定、「主権と領土保全の尊重」で反帝国主義、反植民地主義を主張、「軍事ブロックの自制」で非同盟の路線を打ち出した。(100字)

問2 テーマ:アジア・アフリカ会議に中華人民共和国代表として参加した人物は誰か。この人物が1936年に中国国民党と中国共産党との関係に大きな影響を与えた出来事とはどのようなことであったか。

ポイント:中国国民党と中国共産党の関係、西安事件の内容についてまとめる
①満州事変後に日本の侵略が激化
②国民党は共産党の拠点攻撃を優先
③長征中の毛沢東が八・一宣言で抗日民族統一戦線を呼びかける
④張学良がこれに共鳴、西安に督促に来た蒋介石を監禁し、周恩来を交えた会談で説得
⑤国共内戦は停止。その後、日中戦争が始まると第二次国共合作が実現

解答例
問2周恩来。満州事変後に日本の侵略が激化したが、国民党は共産党の拠点攻撃を優先していた。長征中の毛沢東が八・一宣言で抗日民族統一戦線を呼びかけると、張学良がこれに共鳴。西安に督促に来た蒋介石を監禁し、周恩来を交えた会談で説得し、国共内戦内戦は停止。その後、日中戦争が始まると第二次国共合作が実現した。(150字)

問3 テーマ:アジア・アフリカ会議にインド代表として参加した人物と、その人物が参加した政治団体。この団体の政治運動の展開過程。

ポイント:インド国民会議派の政治運動の展開過程をまとめる
①ボンベイ大会で地主・知識人中心に英の協賛団体として組織
②ベンガル分割令で反英化し、ティラク主導のカルカッタ大会で四綱領を採択
③ガンディーが非暴力・不服従運動を展開
④ラホール大会でネルーが完全独立を主張
⑤ムスリム連盟と対立し、パキスタンと分離独立した

解答例
問3ネルー。インド国民会議派。ボンベイ大会で地主・知識人中心に英の協賛団体として組織。ベンガル分割令で反英化し、ティラク主導のカルカッタ大会で四綱領を採択した。ガンディーが非暴力・不服従運動を展開し、ラホール大会でネルーが完全独立を主張。ムスリム連盟と対立し、インド独立とともにパキスタンが分離した。(150字)

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