
一橋大学(2015年)
第1問
次の文章を読んで、問いに答えなさい。
「聖なるクリスマスの日に、王がミサのために至福の使徒ペテロの墓前での祈りから立ち上がったとき、教皇レオは冠を彼の頭に載せた。そして、彼はすべてのローマ人民により歓呼された。「至聖なるカール、神により戴冠されたる偉大にして平和を許すローマ人の皇帝に命と勝利を!」と。そして、讃歌ののち、彼は教皇から古き皇帝の慣行に従った崇拝をうけ、それ以来、彼はパトリキウスの称号を止めて、皇帝と呼ばれた。」(『フランク編年史』より)
問い この文章の中で「ローマ人の皇帝」とされた『彼』(カール)は、ヨーロッパ世界にとって重要な存在とされる。彼はローマ滯在中、聖ペテロ教会でのクリスマス・ミサに出かけ、この文章によって伝えられる出来事を経験した。
カールは、この時なぜローマに滯在していたのか、また、なぜ「ローマ人の皇帝」としてローマ人民により歓呼されたのか。8世紀後半におけるキリスト教世界の情勢のなかで述べるとともに、この出来事がヨーロッパの歴史に与えた影響について説明しなさい。(400字以内)
テーマ:
1.カール戴冠の際、カール大帝がローマに滞在していた理由
2.「ローマ人の皇帝」としてローマ人民により歓呼された理由
3.1.2を8世紀後半におけるキリスト教世界の情勢の中で述べる
4.カール戴冠がヨーロッパの歴史に与えた影響
※解答順は3→1→2→4

ポイント
3.8世紀後半におけるキリスト教世界の情勢
①イスラム勢力が地中海に進出すると、これに対抗するためにビザンツ帝国は聖像禁止令
②ゲルマン人への布教を必要とするローマ教会はフランク王国に保護を求めて接近
③教皇はピピンの王位継承を支持し、ピピンはランゴバルドを討伐し、ラヴェンナを寄進して結びつきを強める
④ピピンの子、カールはヨーロッパの主要部を統一した
1.カール戴冠の際、カール大帝がローマに滞在していた理由
⑤敵対する勢力から襲撃された教皇レオ3世の要請に答え、カールはローマに来ていた
2.「ローマ人の皇帝」としてローマ人民により歓呼された理由
⑥ローマ皇帝として戴冠、西ローマ帝国の復活という形式をとったため、かつてのローマ帝国の栄光の再現を期待
⑦また、かつてのローマ帝国のキリスト教世界の守護者としての皇帝のあり方を期待
4.カール戴冠がヨーロッパの歴史に与えた影響
⑧政治的…フランク王国がビザンツ帝国の影響から脱却
⑨宗教的…ローマ教会がビザンツ帝国の影響を断ち切った
⑩文化的…古典古代文化・キリスト教文化・ゲルマン文化の3要素が融合
解答例
イスラム勢力が地中海に進出すると、これに対抗するためにビザンツ帝国は聖像禁止令を発布した。ゲルマン人への布教を必要とするローマ教会は、フランク王国に保護を求めて接近、教皇はピピンの王位継承を支持し、ピピンはランゴバルドを討伐し、ラヴェンナを寄進して結びつきを強めた。続いてピピンの子カールはヨーロッパの主要部を統一した。こうした中、敵対する勢力から襲撃された教皇レオ3世の要請に答え、ローマに来たカールは、教皇からローマ皇帝として戴冠された。これにより西ローマ帝国が復活し、かつての帝国の栄光の再現と、キリスト教世界の守護者としての皇帝のあり方を期待したローマ人民は歓呼した。カール戴冠の影響は、政治的にはフランク王国がビザンツ帝国の影響から脱却したこと。宗教的にはローマ教会がビザンツ帝国の影響を断ち切ったこと。文化的には古典古代文化・キリスト教文化・ゲルマン文化の3要素が融合したことである。(400字)
※①が最も難しいです。教皇レオ3世は、799年に敵対する勢力から襲撃され、怪我を負わされます。教皇は自身の身の安全を保護することを求め、カールの下にやってきます。カールは教皇を保護し、送り返しました。翌800年に教皇からの要請を受け、襲撃事件を解決する裁判を行うためにローマにやってきたというのが経緯です。
8世紀後半のキリスト教世界の情勢なので、726年に出された聖像禁止令の影響で聖像崇拝論争が起こっているところです。背景にはイスラム勢力の地中海進出があります。ピピンの即位が751年なので、ここから書き始めることができます。
第2問
ともに1967年に発足したヨーロッパ共同体と東南アジア諸国連合は、地域機構として大きな成功をおさめた。両機構の歴史的役割について、その共通点と相違点を説明しなさい。(400字以内)
テーマ:ヨーロッパ共同体と東南アジア諸国連合の歴史的役割の共通点と相違点
この問題はヨーロッパ共同体の形成過程から書いてしまいがちですが、問題が聞いているのはそこではありません。
自分の知っていることを書くのではなく、問題文の指示に沿うように自分が知っていることを組み立てて考えるのが論述問題であるということを教えてくれる良問です。
問いは、「ヨーロッパ共同体と東南アジア諸国連合の歴史的役割の共通点と相違点」です。
「役割」というのはタイプとしては「意義」の問題です。
「歴史的役割」とは「地域共同体として何を実現してきたか」ということです。
これを念頭に置いて書かないと、単なる共通点と相違点の比較になります。
下手すると0点です。
また、歴史的役割の共通点は~である。歴史的役割の相違点は~である、と整理して書かないと採点されません。
よくある解答例のような「何が共通点で、相違点かは答案から勝手に読み取ってくれ」という姿勢は絶対にダメです。
共通点に関することや、相違点に関することが書いてあったとしても0点になります。
一橋大学の世界史論述は、項目を整理して書き、採点をする人にわかるように書かなければなりません。
問題を見たら、箇条書きで構わないので、問題文の指示に沿うものを書き出してみることが大切です。
そして、その項目に沿って書いてきます。
気になるところはEC(ヨーロッパ共同体)がどこまで続いたかというところです。
ECは2009年のリスボン条約発効で解消されるまで存続していますので、EUが設立されてからも内部構造としてはしばらく存続しています。
そのため、冷戦崩壊後の東欧諸国への拡大についてまで言及が可能です。
〇歴史的役割の共通点と相違点

解答のポイント
1.歴史的役割の共通点
①域内関税を廃止して経済的統合を進め、地域の経済発展に大きく寄与したこと
②冷戦下に組織され、共産主義の拡大を阻止してきたが、冷戦崩壊後には旧共産主義の国々を巻き込んで資本主義化を促進してきたこと
2.歴史的役割の相違点
③協力の順序…ECが先に域内の経済協力を優先し、後に政治統合を進めたのに対して、ASEANは政治同盟から発足し、後にAFTAを締結して域内の経済協力を進めてきたこと。
④戦争の防止…ECはフランスと西ドイツを中心に西ヨーロッパにおける大きな戦争の再発を防止する役割を果たしたが、ASEANは東南アジアにおいてそのような役割は果たせなかった
⑤共通政策の実現…ECは原子力の共同管理により平和の推進、欧州通貨制度により加盟国間の為替変動幅を抑制して経済の安定を実現してきた(欧州中央銀行の共通の金融政策や、共通通貨ユーロを採用し、通貨を統合することにより経済発展を実現)、これに対し、ASEANはECほど共通政策を実現できていない
論述の練習で大切なのは、「思考の仕方」を知ることです。
どのような思考のプロセスを経れば問題の要求に答えることができるのかを過去問を通じて練習をした人は、本番でも問題の要求に近づけるような書き方ができます。
練習をしたか、しなかったかで本番の答案の出来に雲泥の差がつきます。
論述は、知識を出してからが勝負です。
自分がアウトプットした知識を組み立てて、どのように問題の要求に近づけられるのかということを考える訓練をしていきましょう。
解答例
ECとASEANの歴史的役割の共通点は、域内関税を廃止して経済的統合を進め、地域の経済発展に大きく寄与したことである。ECとASEANはともに冷戦下に組織され、共産主義の拡大を阻止してきたが、冷戦崩壊後には旧共産主義の国々を巻き込んで資本主義化を促進してきたことでも共通している。歴史的役割の相違点は、ECが先に域内の経済協力を優先し、後に政治統合を進めたのに対して、ASEANは政治同盟から発足し、後にAFTAを締結して域内の経済協力を進めてきたことである。また、ECはフランスと西ドイツを中心に西ヨーロッパにおける大きな戦争の再発を防止する役割を果たしてきたが、ASEANは東南アジアにおいてこうした役割を果たせなかった。さらにECは原子力の共同管理により平和を推進し、欧州通貨制度により加盟国間の為替変動幅を抑制して経済の安定を実現してきたが、ASEANはECほどの共通政策を実現できなかった。(400字)
第3問
次の文章は、18世紀末における清朝の対外関係の一端を伝えるものである。これを読んで、問いに答えなさい。
1793年9月16日(水) 一行の韃靼(だったん)滯在期間もいよいよ残り少なになったので、①皇帝への暇乞の挨拶に、今朝、大使は参内した。但しこの時は前回のような正式な参内ではなかった。
この時にも、王宮内ではある種の公式要談が行われた。随行した幹部連の腹蔵のない話をまとめると、この時の会談の内容はおおよそ次のようなものである。
皇帝は、英国といわずどこといわずおよそ外国を相手に成文の条約による契約に署名する、従ってそういった契約に応ずるということには、のっけから絶対反対だったのである。皇帝の言分はこうである──およそ外国と条約関係に入るということは、この国の伝統的国是にももとり、事実支那古来の法律にも背くことになる。が、自分としては、英国国王並に英国国民に対し高い尊敬の念をもっていることは申すまでもない。事実、当方としても、できうべくんば英国に対し、現にこの国と通商関係にある他のどのヨーロッパの強国よりも一層大きい通商的便宜を与えたいのは勿論であるし、また今回の会談の眼目と思われる例の広東来港の英国船に課する課税問題ということでも、当方としてはこれに対して新しい取極めに応ずる用意もないではない。が、そのまた半面には、自分としては、自国民の真の利益を絶えず擁護すべき地位にあるのであって、これだけは絶対に犠牲にするわけにはいかないので、従って自国民の利益が少しでも犯される気配があれば、いつでも相手国の如何を問わずその修好上の便宜を撤回しなければならない。で、かりに英国が、この国と現に通商関係にある他の国以上に有利な便宜を与えられているとしても、その通商行為の如何によっては、これまたその権利を喪失すべきことにならぬとも限らない。自分はこの際、これだけのことははっきり言明しておきたい。で、これを自分が理解・実践するには、成文の証書も署名も一切その必要がないのである。
(イーニアス・アンダーソン著・加藤憲市訳『マカートニー奉使記』より引用。但し、一部改変)
問い 下線①皇帝の名前を記し、その皇帝によって語られた清朝の対外関係の特徴とその崩壊過程を説明しなさい。(400字以内)
テーマ:清朝の対外関係の特徴と崩壊過程
解答のポイント
1.対外関係の特徴
①冊封体制…周辺国の朝貢に対して中国は官爵を与えて君臣関係を結ぶ
②清朝は乾隆帝以来、ヨーロッパとの交易を広州1港に限定し、特許商人の組合である公行が貿易を独占
2.冊封体制の崩壊
③イギリスは自由貿易を求めるが清朝が拒否したことでアヘン密輸を開始、この取り締まりを原因としたアヘン戦争勃発
④敗北した清は南京条約で五港を開港し、公行廃止
⑤五港通商章程で領事裁判権を承認、虎門寨追加条約で協定関税制・片務的最恵国待遇を承認
⑥アロー戦争に敗北、天津条約・北京条約で開港場を11港増加、外国公使の北京駐在を認め、その後総理各国事務衙門が設置され対等な外交関係に移行
⑦琉球は日本と清朝に両属→清朝は日本の台湾出兵により琉球の宗主権を失う
⑧清仏戦争に敗北、天津条約でベトナムの宗主権を失う
⑨日清戦争に敗北、下関条約で朝鮮の宗主権を失う
→中国を中心とする冊封体制は完全に崩壊
解答例
乾隆帝。中国は古来から、周辺国の朝貢に対して官爵を与えて君臣関係を結ぶ冊封体制をとっていた。清朝は乾隆帝以来、ヨーロッパとの交易を広州1港に限定し、特許商人の組合である公行が貿易を独占していた。イギリスは自由貿易を求めるが、清朝が拒否したことでアヘンの密輸を開始、この取り締まりを原因としてアヘン戦争が勃発し、敗北した清は南京条約で五港を開港し、公行を廃止。五港通商章程で領事裁判権を承認。虎門寨追加条約で協定関税制、片務的最恵国待遇を承認した。続くアロー戦争でも英仏に敗北し、天津・北京条約で外国公使の北京駐在を認め、これに基づき総理各国事務衙門が設置されて、対等な外交関係に移行した。その後、日清に両属していた琉球も日本の台湾出兵で宗主権を失い、清仏戦争敗北後の天津条約でベトナムの宗主権を失い、日清戦争敗北後の下関条約で朝鮮の宗主権を失った。こうして、中国を中心とする冊封体制は完全に崩壊した。(400字)